関東大震災

凌雲閣

今村式1倍強震計(東京帝国大学)
地震の揺れが大きく各地の地震計の針が振り切れてしまったが、現在の基準で最大震度7と考えられている。大きな揺れは10分以上続いた。

凌雲閣付近の火災
当時は耐震基準もなく、耐火性のある煉瓦造りの建物の多くが倒壊した。1890年(明治23年)に完成した高さ52メートルの凌雲閣(浅草十二階)は、8階から上が倒壊した。
ちょうど昼食時であったために料理に火を使っており、揺れが収まった1時間後には、帝都各地で火災が発生した。
ちょうど昼食時であったために料理に火を使っており、揺れが収まった1時間後には、帝都各地で火災が発生した。

被災者
だが、ラジオ放送が始まっていない時代で(ラジオ放送が始まるのは2年後のこと)、ほとんどの人々は、同時多発で火災が起きていることに気付かず、この時点では避難行動に結びつかなかった。
消防団は全力で消火活動に当たっていたが、地震で水道管が破断し、消火栓が役に立たなかった。やむを得ず、近くの池や皇居のお堀から水を汲み上げたが、火の手を止めることはできなかった。
消防団は全力で消火活動に当たっていたが、地震で水道管が破断し、消火栓が役に立たなかった。やむを得ず、近くの池や皇居のお堀から水を汲み上げたが、火の手を止めることはできなかった。

飛び火火災
この日、日本海沿岸を台風が進んでおり、風速10メートルの強風が吹いていた。火災で発生した火の粉が飛び火し、14時以降、火元から離れたところに火災が発生する飛び火火災が発生した。木造家屋では地震の揺れで瓦が落ちてしまい、火の粉を防ぐことができなかったためだ。火災は134カ所に及んだ。
16時頃になると、ようやく人々は同時多発で火災が起きていることに気づき、避難を始めた。当時、行政による避難地域は指定されておらず、人々は近くの広場や公園に逃げ込んだ。多くの人々が家財道具を大八車に積んで逃げたため、道路が大混雑となり、身動きが取れなくなった。

逃げ遅れた人々は、対岸に火災は及んでいないだろうと考え、隅田川に架かる6つの橋に殺到した。だが、この時点で両岸とも火災に包まれており、橋の両側から人がなだれ込む格好になった。欄干に挟まれて押しつぶされそうになった人々は川へ飛び込み、5千人が溺死した。橋に残った人々も圧死したり、火災に巻き込まれて焼死した。

隅田川の近く、JR両国駅の北側にある都立横網町公園は、当時、陸軍被服廠が移転した後で、2万坪の広さの空き地となっており、ここへ4万人が避難した。ところが、三方から押し寄せる火災と、強い南風が被服廠跡へ流れ込み、数十メートルの高さに及ぶ空気の渦、火災旋風が発生する。最初は被服廠跡の外側で発生したが、家財道具に飛び火し、この火事に導かれるように火災旋風が被服廠跡を舐め尽くし、避難した人々は旋風に巻き上げられ、3万8千人が焼死した。

1914年(大正3年)12月に開業した東京駅の大時計は11時58分を指して止まっていたが、建物は無事で、即席の避難所となった。

夜が明けると、浅草の火の手は弱まってきた。
風は南風から北風に変わり、上野駅周辺の線路に避難していた人々に火が迫っていた。人々は上野公園に逃げ込んだ。9月2日夜には、上野広小路が焼け野原となったが、幸い、上野公園には延焼しなかった。

9月3日になってようやく鎮火するが、東京市の4割が焼け、7割の人が家を失った。人々は疲れ果て、心が荒んでいた。そして、正確な情報を得る手段がなかった。富士山が噴火した、上野動物園から猛獣が逃げ出した、誰かが池に毒を流したといったデマが広がった。
市内の新聞社はすべて焼け落ち、警視庁は全焼、電話も不通だった。政府は東京に戒厳令を出した。
だが、軍・警察の主導で組織された自警団が、朝鮮人を暴行し殺害するという事件が発生する。朝鮮人だけでなく、中国人や日本人も襲われた。

当時32歳だった芥川龍之介は、被災地を歩いて回り「大正十二年九月一日の大震に際して」という手記を残し、被災者が互いに助け合う姿に心を動かされた。

逃げ遅れた人々は、対岸に火災は及んでいないだろうと考え、隅田川に架かる6つの橋に殺到した。だが、この時点で両岸とも火災に包まれており、橋の両側から人がなだれ込む格好になった。欄干に挟まれて押しつぶされそうになった人々は川へ飛び込み、5千人が溺死した。橋に残った人々も圧死したり、火災に巻き込まれて焼死した。

隅田川の近く、JR両国駅の北側にある都立横網町公園は、当時、陸軍被服廠が移転した後で、2万坪の広さの空き地となっており、ここへ4万人が避難した。ところが、三方から押し寄せる火災と、強い南風が被服廠跡へ流れ込み、数十メートルの高さに及ぶ空気の渦、火災旋風が発生する。最初は被服廠跡の外側で発生したが、家財道具に飛び火し、この火事に導かれるように火災旋風が被服廠跡を舐め尽くし、避難した人々は旋風に巻き上げられ、3万8千人が焼死した。

1914年(大正3年)12月に開業した東京駅の大時計は11時58分を指して止まっていたが、建物は無事で、即席の避難所となった。

夜が明けると、浅草の火の手は弱まってきた。
風は南風から北風に変わり、上野駅周辺の線路に避難していた人々に火が迫っていた。人々は上野公園に逃げ込んだ。9月2日夜には、上野広小路が焼け野原となったが、幸い、上野公園には延焼しなかった。

9月3日になってようやく鎮火するが、東京市の4割が焼け、7割の人が家を失った。人々は疲れ果て、心が荒んでいた。そして、正確な情報を得る手段がなかった。富士山が噴火した、上野動物園から猛獣が逃げ出した、誰かが池に毒を流したといったデマが広がった。
市内の新聞社はすべて焼け落ち、警視庁は全焼、電話も不通だった。政府は東京に戒厳令を出した。
だが、軍・警察の主導で組織された自警団が、朝鮮人を暴行し殺害するという事件が発生する。朝鮮人だけでなく、中国人や日本人も襲われた。

当時32歳だった芥川龍之介は、被災地を歩いて回り「大正十二年九月一日の大震に際して」という手記を残し、被災者が互いに助け合う姿に心を動かされた。

今村明恒
関東大震災より18年前、1905年(明治38年)に、東京帝国大学の地震学者だった今村明恒は、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。今村は、1899年(明治32年)に津波のメカニズムを明らかにしていた。ところが、この記事がパニックを引き起こし、上司の大森房吉教授は、これをデマとして沈静化をはかった。
関東大震災が発生し、はからずも今村は「地震の神様」と呼ばれるようになり、摂政宮(のちの昭和天皇)にも講義をする。
関東大震災が発生し、はからずも今村は「地震の神様」と呼ばれるようになり、摂政宮(のちの昭和天皇)にも講義をする。

後藤新平
震災後の復興事業は、内務大臣の後藤新平によって進められる。
後藤は、道幅108メートルの昭和通りを含む8つの首都環状道路や大きな公園を造り、鉄道は全て地下鉄にするなど、災害に強い首都に再建しようとした。
しかし、膨大な予算がかかるため、結局、昭和通りは現在の道幅に狭められ、計画は大幅に縮小された。
それでも、都心には鉄筋コンクリート製のビルが建ち並び、道路も舗装され、江戸時代から続いた東京の街並みは近代都市に変貌することになる。1930年(昭和5年)に帝都復興祭が催され、東京は奇跡の復興を遂げる。
後藤は、道幅108メートルの昭和通りを含む8つの首都環状道路や大きな公園を造り、鉄道は全て地下鉄にするなど、災害に強い首都に再建しようとした。
しかし、膨大な予算がかかるため、結局、昭和通りは現在の道幅に狭められ、計画は大幅に縮小された。
それでも、都心には鉄筋コンクリート製のビルが建ち並び、道路も舗装され、江戸時代から続いた東京の街並みは近代都市に変貌することになる。1930年(昭和5年)に帝都復興祭が催され、東京は奇跡の復興を遂げる。
だが、震災対策が不十分であることに変わりはなかった。1931年(昭和6年)に東大を定年退官した今村は、私財を投げ打って、地震の研究を続け、全国で講演した。今村は、地震を止めることはできないが、震災は減じることができると説いて回った。
参考サイト
- 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 前編」NHKスペシャル,2023年9月2日
- 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」NHKスペシャル,2023年9月3日
参考書籍
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関東大震災 | ||
著者 | 吉村昭 | ||
出版社 | 文藝春秋 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2004年08月03日頃 | ||
価格 | 847円(税込) | ||
ISBN | 9784167169411 | ||
大正12年9月1日、午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、様々な流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していくー。二十万の命を奪った大災害を克明に描きだした菊池寛賞受賞作。 | |||
![]() |
関東大震災 消防・医療・ボランティアから検証する | ||
著者 | 鈴木淳 | ||
出版社 | 筑摩書房 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2004年12月06日頃 | ||
価格 | 792円(税込) | ||
ISBN | 9784480062079 | ||
阪神淡路大震災、そして新潟中越地震は、私たちに災害への備え、災害後の救助について教訓をのこしたが、実は八〇年前の関東大震災にも、多くの学ぶべき教訓がある。関東大震災では一〇万人を超える人命が失われたが、その多くは焼死者であった。消防は誰が担ったのか。医療関係者の手は十分にとどいたのか。四万人以上が亡くなった、両国の被服廠跡の悲劇はなぜおこったのか。そして、すでにこのとき「ボランティア活動」が、青年団や在郷軍人会によって行われていた。本書は、首相から一般市民まで、大震災に立ち向かった人々の一週間あまりの活動に焦点をあて、忘れられた大災害の全体像に迫る。 | |||
![]() |
後藤新平伝 | ||
著者 | 星亮一 | ||
出版社 | 平凡社 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 2005年06月 | ||
価格 | 1,980円(税込) | ||
ISBN | 9784582832686 | ||
奥州水沢に生まれた後藤新平は、薩長藩閥主流の時代にあって、内務省衛生局長から台湾総督府民政長官、満鉄総裁、そして外務大臣から東京市長、東京放送局総裁に至るまで、多彩かつ創造的な活動を繰り広げた。明治から昭和にかけて、その異能と行動力、先進性で日本をリードし、国民に愛された開明政治家の生き方を描く。 | |||
![]() |
関東大震災と日米外交 | ||
著者 | 波多野勝/飯森明子 | ||
出版社 | 草思社 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 1999年08月 | ||
価格 | 2,420円(税込) | ||
ISBN | 9784794209108 | ||
関東大震災を外交面からとらえた画期的な試み!大正十二年九月一日、関東大震災発生の報に接するや、クーリッジ大統領の命令一下、アメリカは大規模な援助活動を開始した。救助船としてアジア艦隊から派遣された七隻の駆逐艦は早くも五日に横浜に入港。マニラ駐屯軍は六千床分の医療機材を提供し、米国民の義援金は一千六十万ドルにのぼった。このアメリカの圧倒的な緊急支援の背後には、いかなる狙いがあったのか。外務省、旧陸海軍、米国務省の資料をもとに、知られざる緊急援助の一部始終をたどりつつ、第一次大戦後、グローバル・パワーとなったアメリカの対日政策を検証し、太平洋戦争から今日にいたるアメリカ外交の本質に迫る。今後の日米関係を誤らないための手がかりとなる一冊。 | |||
タイガー計算機

タイガー計算機
大正時代の好景気を受け、大阪の鉄工所「大本鉄鋼所」には大量注文が舞い込み、社長の大本寅次郎は原価計算に追われる毎日だった。そこで誰でも早く原価計算ができるよう手回し計算機「虎印計算機」の開発に着手したが、本業をそっちのけで開発を行っていたため、計算機が完成する頃には得意先からそっぽを向かれてしまった。
この時代の世界
(この項おわり)
死者10万5千人、損害家屋57万戸以上、損害の総額は60億円(現在の価値で10兆7千億円)以上という未曾有の災害になった。