瑠璃光院のインスタ映えする紅葉

2021年11月19日 撮影
瑠璃光院
瑠璃光院 (るりこういん) (京都府京都市左京区上高野東山55)は、岐阜市に本坊を置く浄土真宗無量寿山光明寺の支院で、京都電燈の創業者、田中源太郎の別荘だった。2階の書院にある写経机に映る紅葉がインスタ映えすることで有名。
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瑠璃光院
田中源太郎は、1853年(嘉永6年)2月10日、丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)で生まれた。次男であったが兄が急逝したため、家督を継ぐべく英才教育を受けた。
京都周辺で多くの事業を立ち上げ、1889年(明治22年)7月には、全国で4番目の電燈会社となる京都電燈会社が営業を始める。当初は会社敷地内で石炭火力発電を行っていたが、1890年(明治23年)、日本初の営業用水力発電となる琵琶湖疏水の蹴上発電所 (けあげはつでんしょ) が運転を開始すると、この大電力を送電することで電灯料金を引き下げ、電灯の本格普及に貢献した。
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瑠璃光院
田中が所有していた当地に庵をかまえ、明治の元勲、三条実美 (さんじょう さねとみ) 喜鶴亭 (きかくてい) と命名し、直筆の命名額を下された。この額は当院に保管されており、喜鶴亭は茶屋名として受け継がれている。
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瑠璃光院
田中の死後、京都電燈重役の個人別荘となり、大正から昭和初期にかけ、12,000坪の敷地に東山を借景とした築庭と、のべ240坪に及ぶ数寄屋造りの大邸宅が建設された。
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瑠璃光院
建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二 (なかむら そとじ) 、築庭は佐野藤右衛門 (さの とうえもん) 一統の作と伝えられている。
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瑠璃光院
境内には3つの庭園があり、そのうちの一つ「瑠璃の庭」は一面をコケで覆われており、瑠璃色に輝くことから瑠璃光院の名の由来になっている。
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瑠璃光院
京都電燈が叡山電鉄叡山本線や叡山ケーブルを開設すると、京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業するようになり、日本情緒あふれる名建築・名庭として多くの人々に親しまれ、囲碁本因坊位の対戦場となった。
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瑠璃光院
料理旅館が廃業することになり、2005年(平成17年)光明寺が買収して寺院になった。
文化財保護のために非公開であったが、2015年(平成27年)より、春と秋の季節限定で一般公開され、Instagramへの投稿が注目を集め、多くの観光客が訪れるようになった。
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瑠璃光院
八瀬の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背中に矢傷を負った大海人皇子 (おおあまのおうじ) (天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちにやすらぎの郷として愛されてきた。
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瑠璃光院
境内には八瀬のかま風呂と呼ばれる、大海人皇子が傷を癒やした日本式蒸し風呂の原型がある。半円形の釜の中に十数時間、青松葉や薪などを燃やし、内部の土が十分に熱せられたところで火を止め、ムシロを敷いて寝転んで温まる。
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ケーブル八瀬駅
最寄駅は、叡山電車「八瀬比叡山口駅」または叡山ケーブル「八瀬駅」である。
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交通アクセス

【鉄道】
  • 叡山電車「八瀬比叡山口駅」下車、徒歩約5分
  • 叡山ケーブル「八瀬駅」下車、徒歩約5分
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:
瑠璃光院 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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