
天正12年(1584年)、羽柴秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍の間で小牧・長久手の戦いが起きる。これは、秀吉と家康が直接衝突した唯一の戦いである。
天正11年(1583年)、羽柴秀吉は織田信長の次男・信雄を安土城から退去させ、これ以後、信雄と秀吉の関係が険悪化する。秀吉は信雄の家臣を懐柔し配下にしようと目論むが、信雄は彼らを処刑し、徳川家康との同盟を結んだ。

天正11年(1583年)3月、2万の軍勢を率いて出陣した家康は小牧山を選挙し陣を敷いた。一方、秀吉は8万の軍勢を率いて出陣した。
数の上では徳川・織田連合軍が圧倒的に不利であったが、徳川軍は羽柴軍の別働隊である池田軍を奇襲で破り、早々に撤退した。
結果的に負けを喫した秀吉は、5月、伊勢国(現在の三重県)へ転進し、織田信雄を攻めた。秀吉と信雄は11月に和睦したため、家康は秀吉と戦う大義を失ったため、領国である三河国へ引き上げた。

その後も、秀吉は家康を配下に組み入れるために、天正14年(1586年)4月には実の妹の旭姫を家康に嫁がせた。9月には、母なかを人質として家康に差し出す。
こうして、秀吉が死ぬまで、家康との間の衝突は避けられることになる。

天正11年(1583年)3月、2万の軍勢を率いて出陣した家康は小牧山を選挙し陣を敷いた。一方、秀吉は8万の軍勢を率いて出陣した。
数の上では徳川・織田連合軍が圧倒的に不利であったが、徳川軍は羽柴軍の別働隊である池田軍を奇襲で破り、早々に撤退した。
結果的に負けを喫した秀吉は、5月、伊勢国(現在の三重県)へ転進し、織田信雄を攻めた。秀吉と信雄は11月に和睦したため、家康は秀吉と戦う大義を失ったため、領国である三河国へ引き上げた。

その後も、秀吉は家康を配下に組み入れるために、天正14年(1586年)4月には実の妹の旭姫を家康に嫁がせた。9月には、母なかを人質として家康に差し出す。
こうして、秀吉が死ぬまで、家康との間の衝突は避けられることになる。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)