
承久の乱
荘園経営の変化

北>荘園遺跡 大分・田染荘
鎌倉幕府は、全国の荘園に地頭を配置した。地頭は荘園を経営する豪族(武士)から年貢を徴収したが、これを貴族に支払わないケースが出てきた。また、東国の荘園は、平安時代には摂関家や大寺院に寄進されることが多かったが、これも止まってしまった。こうして貴族の収入が減少していった。
奈良時代に、朝廷が地方行政官として派遣した国司は存続していたが、地頭が荘園管理に進出するようになり、次第にその影響力は衰えていった。
室町時代になると、守護に大きな権限が与えられ、地域の支持を得たものは守護大名から戦国大名へと成り上がっていく。一方、国司は名誉職となっていく。

地頭が荘園経営に力を入れた結果、鎌倉時代中期には、農地として利用できる土地がほぼ開発し尽くされてしまう。さらに農業生産力を上げようと、麦などを栽培する二毛作がはじまった。
室町時代になると、守護に大きな権限が与えられ、地域の支持を得たものは守護大名から戦国大名へと成り上がっていく。一方、国司は名誉職となっていく。

地頭が荘園経営に力を入れた結果、鎌倉時代中期には、農地として利用できる土地がほぼ開発し尽くされてしまう。さらに農業生産力を上げようと、麦などを栽培する二毛作がはじまった。
後鳥羽上皇の院政

後白河法皇

土御門天皇

後鳥羽上皇
1202年(建仁2年)、九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。源頼朝も他界しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。
後鳥羽上皇は文武両道に秀でた人物で、収入減少に悩む貴族たちは上皇を頼った。
1203年(建仁3年)10月、後鳥羽上皇から名前をもらった源実朝が鎌倉幕府第3代将軍に就任すると、後鳥羽上皇は和歌を通じて実朝に朝廷政治を教育した。
しかし、1219年(建保6年)1月に実朝が暗殺されると、幕府と朝廷の関係が急激に冷え込んだ。
後鳥羽上皇は文武両道に秀でた人物で、収入減少に悩む貴族たちは上皇を頼った。
1203年(建仁3年)10月、後鳥羽上皇から名前をもらった源実朝が鎌倉幕府第3代将軍に就任すると、後鳥羽上皇は和歌を通じて実朝に朝廷政治を教育した。
しかし、1219年(建保6年)1月に実朝が暗殺されると、幕府と朝廷の関係が急激に冷え込んだ。
承久の乱

北条義時
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇は流鏑馬ぞろいと称して集めた諸国の武士1700人に対し、北条義時を討てという院宣を発し、有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」という密書を送った。一方、義時は御家人に領地を約束した。
こうして承久の乱が始まる。
こうして承久の乱が始まる。
院宣や密書の内容は、4日後には鎌倉幕府に伝わっていた。当時、京都から鎌倉までは早馬でも7日かかるのが普通で、幕府がいかに素早く動いたかが分かる。また、武士も領地から入る収入で生計を立てるようになっており、名誉より収入が増えることをを優先するようになっていた。

北条政子
幕府は上皇軍と戦う計画を立て、5月19日、源頼朝の妻、北条政子が鎌倉の御所に集まった御家人を前に、源氏三代の恩を振り返り、「この中に朝廷側につこうとする者がいるのなら、まず私を殺し、鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」という演説を行う。
5月22日、幕府は20万の大軍を京都へ向かわせた。
5月22日、幕府は20万の大軍を京都へ向かわせた。
一方、上皇側は、武士たちが院宣に従うものだと慢心しており、中山道、東海道、北陸道の三方から押し寄せる幕府軍になすすべもなく敗走していった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に支援を頼むが拒絶され、やむを得ず、宇治川を最終防衛ラインとして幕府軍を迎え撃った。6月13日、両軍は衝突するが、およそ1日で決着がつき、幕府軍は京都へなだれ込んだ。
御所に逃げ込んだ後鳥羽上皇は、味方の貴族をかくまうこともせず、門を閉ざしてしまう。
御所に逃げ込んだ後鳥羽上皇は、味方の貴族をかくまうこともせず、門を閉ざしてしまう。
武家政権の確立

鎌倉幕府の仕組み
1221年(承久3年)7月、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の膨大な荘園を含む貴族の荘園は没収され、幕府が管理することになった。
また、幕府は京都守護に代わり六波羅探題を設け、朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになった。
こうして武士による本格的な治世がはじまった。

鎌倉幕府は、将軍を補佐する執権(北条氏)がおり、中央(鎌倉)には、源氏の直営部隊である御家人を統率する侍所、財政を担当する政所、裁判担当の問注所、執権を補佐する評定衆が置かれた。今日路の六波羅探題は上述の通り。地方には、治安維持を担う守護と、年貢の取り立てや土地管理を行う地頭が置かれた。
また、幕府は京都守護に代わり六波羅探題を設け、朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになった。
こうして武士による本格的な治世がはじまった。

鎌倉幕府は、将軍を補佐する執権(北条氏)がおり、中央(鎌倉)には、源氏の直営部隊である御家人を統率する侍所、財政を担当する政所、裁判担当の問注所、執権を補佐する評定衆が置かれた。今日路の六波羅探題は上述の通り。地方には、治安維持を担う守護と、年貢の取り立てや土地管理を行う地頭が置かれた。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱 | ||
著者 | 坂井孝一 | ||
出版社 | 中央公論新社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2018年12月20日頃 | ||
価格 | 990円(税込) | ||
ISBN | 9784121025173 | ||
一二一九年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺された。朝廷との協調に努めた実朝の死により公武関係は動揺。二年後、承久の乱が勃発する。朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。だが、義時の嫡男泰時率いる幕府の大軍は京都へ攻め上り、朝廷方の軍勢を圧倒。後鳥羽ら三上皇は流罪となり、六波羅探題が設置された。公武の力関係を劇的に変え、中世社会のあり方を決定づけた大事件を読み解く。 | |||
![]() |
後鳥羽院 第二版 | ||
著者 | 丸谷才一 | ||
出版社 | 筑摩書房 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 2004年09月 | ||
価格 | 3,850円(税込) | ||
ISBN | 9784480823465 | ||
後鳥羽院は最高の天皇歌人で、その和歌は藤原定家の上をゆく。「新古今」は批評家としての偉大を示す。1973年度読売文学賞受賞作の増補版。 | |||
![]() |
承久の乱と後鳥羽院 (敗者の日本史) | ||
著者 | 関幸彦/山本博文 | ||
出版社 | 吉川弘文館 | ||
サイズ | 全集・双書 | ||
発売日 | 2012年10月 | ||
価格 | 2,860円(税込) | ||
ISBN | 9784642064521 | ||
鎌倉と京、公武権力構図の転換点とされる承久の乱。治天の君=後鳥羽院が歌に込めた「道ある世」への希求とは何だったのか。諸史料を中心に、協調から武闘路線への道をたどり、隠岐に配流された後鳥羽院のその後にも迫る。 | |||
(この項おわり)
源頼朝の妻・北条政子と鎌倉幕府第2代執権・北条義時は鎌倉武士団をまとめ、上皇軍を打ち破った。
この乱の結果、幕府が朝廷を監視・管理するようになり、皇位継承などにも影響力を持つようになる。