西暦1517年 - マムルーク朝の滅亡

オスマン帝国の台頭
カイロを首都とするスンニ派のマムルーク朝は、1517年、オスマン帝国によって滅亡する。

オスマン帝国は、イスラム教の二大聖地であるメッカとメディナの保護権を獲得し、イスラム世界の盟主となった。また、1520年に即位した皇帝スレイマン1世の治世、もっとも領土が広がり、内政も安定した。

マムルーク朝の成立から滅亡まで

マムルーク朝の版図
マムルークとはイスラム世界における軍人奴隷のことである。
チンギス・ハーンは中央アジアから西アジアまでを併合した過程で、この土地に住む多くの遊牧民がモンゴル軍に捕らえられて奴隷として売られた。イスラム諸国が彼らをマムルークとして採用したのがはじまりである。
アイユーブ朝末期の第7代スルタン、サーリフ(在位1240年~1249年)にシャッジャル・アッドゥールという側室がいた。彼女はトルコ系のクマン族出身で、夫の死後、マムルーク軍団の力を背景に、1250年にアイユーブ朝を滅ぼしマムルーク朝を創始する。

マムルーク朝は200年続くが、ほとんどのスルタンは実力で権力を奪取するという血なまぐさい政争が後を絶たなかった。
そして15世紀に入るとペストの流行で国力が衰え、小アジアに興った新興のオスマン帝国によって滅びることになる。

王朝は滅びてもマムルークは、オスマン朝総督指揮下の傭兵部隊として19世紀初頭まで活躍を続けることになる。

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(この項おわり)
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