西暦1533年 - インカ帝国が滅びる

スペイン人ピサロによる征服
マチュ・ピチュ遺跡
マチュ・ピチュ遺跡
1533年(天文元年)、スペイン人ピサロは皇帝アタワルパを処刑し、インカ帝国の首都クスコを占領した。南米最大の帝国が征服された、大航海時代の重要な転換点である。ただし、皇族による抵抗は1572年(元亀2年)まで続き、帝国の人々や文化が消えたわけではない。

目次

世界史上の位置づけ

大航海時代には、ヨーロッパとアメリカ大陸の間で人・物・病原体が海を越えて移動した。1521年(永正17年)のアステカ帝国の征服に続くインカ帝国の征服は、スペインがアメリカ大陸の広い地域を植民地に組み込む大きな節目となった。

インカ帝国は、アンデスで長く積み重ねられてきた農耕・建築・宗教の伝統を引き継いだ国家である。ヨーロッパ式の文字や鉄製の武器、車輪を使った輸送がなくても、高地と海岸を結ぶ高度な社会を築いた。「文字がないから未発達だった」とは言えない。征服は武器の差だけでなく、疫病、内戦、先住民勢力同士の対立が重なって進んだ。

小王国から南米最大の帝国へ

南米大陸上に示した16世紀初頭のインカ帝国の最大版図の概略
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インカは13世紀ごろ、現在のペルーのクスコ盆地に小王国を築いたとされる。15世紀にパチャクティが征服と統治の仕組みを整え、後継の皇帝たちが領土を拡大した。最大時にはコロンビア南部からチリ中部まで、アンデス沿いに南北約4,000kmに及んだ。国名タワンティンスウユは「四つの地域が合わさったもの」を意味する。
クスコを中心に四つの地方を結び、征服した多様な人々を支配した。各地の共同体は農業や道路建設などの労働を提供し、国家は倉庫に食料や織物を蓄えた。段々畑と灌漑、高地のジャガイモ栽培、海岸や谷のトウモロコシ栽培が大人口を支えた。一方で、住民の移住や労働の負担を強いる支配に反発する集団もいた。

宗教と帝国を支えた技術

金色の太陽円盤を前に祈る人々と太陽神インティ信仰のイメージ
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太陽神インティへの信仰は国家の柱で、皇帝は太陽神につながる神聖な存在とされた。祖先や山、泉などへの信仰も重んじられた。歴代皇帝のミイラは王族の集団によって守られ、儀礼に参加する存在として扱われた。
石造建築では、石の形を合わせて緻密に積み、台形の出入口や内側に傾いた壁を設けた。すべての建物が同じ精密な石組みだったわけではないが、重要な建築には地震に耐えやすい工夫が見られる。

キープ(結縄)は、ひもの色、結び目の種類や位置などで情報を記録する道具である。人口や物資、労働の管理に使われ、数を表す仕組みはかなり解明されている。ただし、物語や歴史をどこまで記録できたのかは研究が続いている。

インカ道(カパック・ニャン)

アンデスのインカ道を走る飛脚チャスキと荷物を運ぶラマ
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インカ道(カパック・ニャン)は、先行する文明の道も利用して整備された総延長約3万kmの交通網である。石畳、階段、つり橋などを地形に合わせて組み合わせた。飛脚チャスキが中継して情報を運び、ラマの隊列が荷物を運んだ。全区間が舗装されていたわけではない。

疫病と皇位継承の内戦

ヨーロッパからアメリカ大陸に持ち込まれた感染症は、征服者の移動や人々の交流によって広がった。インカ領にも、ピサロの征服軍に先行して疫病が及んだと考えられている。1520年代に皇帝ウアイナ・カパックと後継者が病死し、継承をめぐる争いが起きた。天然痘による死とする説明が広く知られるが、死亡年や病名には史料上の不確実さがある。

異母兄弟のウアスカルとアタワルパは帝位を争い、1532年(享禄4年)にアタワルパが勝利した。戦争で軍や支配層が傷つき、征服された地域にも不満が残るなか、スペイン軍が進出した。

植民地化の時代を通じて先住民人口は大きく減少したが、地域と期間で状況は異なる。「インカの住民の50~90%が天然痘だけで短期間に死亡した」と一律には言えない。繰り返す感染症に加え、戦争、飢え、強制的な労働、生活環境の破壊などが重なったのである。

カハマルカの奇襲と1533年の征服

ピサロは1520年代から南米西岸を探り、1531年(享禄3年)に約180人の兵を率いて新たな遠征に出た。1532年11月16日(天文元年10月20日)、ペルー高地のカハマルカでアタワルパと会見した際のスペイン兵は約170人であった。兵の数は遠征の段階で異なるため、「180人で帝国全土を征服した」と単純化はできない。

広場の周囲に兵を隠したピサロは、皇帝とその従者を奇襲した。騎兵、鋼鉄の武器、銃や大砲を用いて人々を殺傷し、アタワルパを捕らえた。皇帝を失った指揮系統の混乱に加え、インカ支配に反発する先住民勢力がスペイン側を助けたことも、征服を進める要因となった。

ピサロとアタワルパ――金銀の身代金

金銀の身代金をめぐって対峙するピサロとインカ皇帝アタワルパ
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アタワルパは釈放のため、部屋を金で満たし、さらに銀を集めるという莫大な身代金を約束した。金銀は集められたが、ピサロは約束どおりに皇帝を解放せず、1533年(天文元年)に処刑した。処刑日は7月26日とする研究がある一方、8月29日とする記述もある。
同年11月、スペイン軍は首都クスコを占領した。ピサロは皇族のマンコ・インカを皇帝に立て、支配を進めた。1533年(天文元年)を「インカ帝国が滅びた年」とするのは、皇帝の処刑と首都占領で帝国の中心的な統治が崩れたためである。南米全体の征服や先住民の抵抗が、この年に終わったわけではない。

マチュ・ピチュはどのような場所か

マチュ・ピチュは、クスコの北西、標高約2,400mの山の尾根にある遺跡である。パチャクティとその王統に関わる王領・離宮と考えられ、神殿や住居、段々畑を備える。従来は15世紀半ばの建設とされたが、放射性炭素年代の研究は1420年(応永26年)ごろから使われていた可能性を示している。

スペイン征服期に放棄され、クスコのような大規模な改造を免れた。ただし、放棄の詳しい時期や理由には不明な点もあり、「スペイン人から逃げるために建てた最後の都」ではない。

1911年(明治44年)、地元の人々の案内を受けたハイラム・ビンガムが遺跡を調査し、その存在を国際的に広めた。地元には遺跡を知る人や耕作する人がいたため、「誰にも知られず、ビンガムが初めて発見した」とする説明は正確ではない。

インカの人々はどこへ消えたのか

マンコ・インカは当初スペイン側と協力したが、1536年(天文4年)に反乱を起こしてクスコを包囲した。包囲を解いた後は山地に退き、1537年(天文5年)ごろからビルカバンバを拠点とする小国家を維持した。抵抗と交渉は後継の皇族にも引き継がれた。

1572年(元亀2年)、スペイン軍はビルカバンバを攻略し、最後の支配者トゥパク・アマル1世を捕らえてクスコで処刑した。これによって独立したインカ王権は終わった。1533年(天文元年)の首都占領から約40年後のことである。

滅びたのは国家の独立であり、人々が絶滅したのではない。そもそもインカ帝国は一つの民族だけの国ではなかった。現在もペルーやボリビアなどにはケチュア語を話す人々が数百万人おり、農業、織物、祭りなどにアンデスの伝統が息づく。アイマラ語を話す人々なども、それぞれの文化を受け継いでいる。

後世への影響

征服で奪われた金銀の工芸品は溶かされ、征服者への分配やスペイン王室への納付に回された。しかし、「黄金だけでスペインの財政が再建された」とは言えない。後世の世界経済に特に大きな影響を与えたのは、植民地で継続的に採掘された銀である。

現在のボリビアのポトシ銀山では、1533年(天文元年)より後の1545年(天文13年)にスペイン支配下で採掘が始まった。銀は大西洋交易などを通じてヨーロッパやアジアへ流れ、明の中国にも大量に届いた。アメリカ大陸の銀の流入は、人口増加などとともに、ヨーロッパで物価が上昇した「価格革命」の一因となった。鉱山労働には先住民への重い負担と犠牲が伴った。

スペイン語とキリスト教が広まる一方、先住民の信仰や生活文化も残り、双方が混じり合った宗教儀礼や美術が生まれた。ヨーロッパ系と先住民系の混合した出自を表す「メスティソ」という言葉も使われたが、人々の歴史や自己認識は多様である。

海を越えた交流は食生活も変えた。アンデスで栽培化されたジャガイモは世界に広まり、重要な食料となった。トウモロコシはメキシコに起源を持ち、トウガラシ類も種類によって栽培化の地域が異なる。これらをすべて「アンデス原産」とせず、アメリカ大陸各地の作物が世界へ広がったと捉えるのが適切である。

マチュ・ピチュとクスコ市街は1983年(昭和58年)、六か国にまたがるカパック・ニャンの主要な遺構群は2014年(平成26年)に世界遺産に登録された。現在は観光資源であると同時に、地域の人々の文化遺産でもある。道路、農業、水の管理などに見られる知恵を学び、遺跡と暮らしを守ることが課題となっている。

マチュ・ピチュ遺跡付近の地図

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、アンデスの山の尾根に残るインカ時代の王領の遺跡である。1983年(昭和58年)、世界遺産に登録された。

参考サイト

参考書籍

  • The Incas, 2nd Edition:Terence N. D’Altroy著、Wiley-Blackwell、2014年(平成26年)。ペーパーバック ISBN 9781444331158。歴史、政治、経済、宗教、考古学を扱う英語の専門書である。初版の第1章は、参考サイトに挙げた出版社のPDFで読むことができる。

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