
バーブル

ウマル・シャイフ
1483年、ティムールの曾孫にあたる父ウマル・シャイフと、チンギス・ハーンの次男の家系であるチャガタイ・ウルスの君主ユーヌス・ハーンの王女クトルグ・ニガール・ハーヌムの間にバーブルが生まれる。この頃、ティムール帝国は分裂し、一族がしのぎを削っていた。
1504年、バーブルはアフガニスタンのカブールを拠点とし、ウズベク族のシャイバーニー朝と戦っていた。だが、1507年、シャイバーニー朝はティムール帝国を滅ぼしてしまう。
1504年、バーブルはアフガニスタンのカブールを拠点とし、ウズベク族のシャイバーニー朝と戦っていた。だが、1507年、シャイバーニー朝はティムール帝国を滅ぼしてしまう。

イスマーイール1世
バーブルは、1510年にシャイバーニー朝を撃退したサファヴィー朝のイスマーイール1世の支援を受け、1511年、サマルカンドを征服する。
しかし、サマルカンド住民の多くがスンナ派であったこと、1514年、イスマーイール1世はオスマン帝国の軍勢にチャルディラーンの戦いで敗北したことなどから、これ以降、バーブルはサファヴィー朝の支援をあてにしなくなったが、これは中央アジアでの王朝樹立を放棄することになった。
バーブルはアフガニスタン周辺の支配を固め、1519年、最初のインド遠征を行う。1522年、サファヴィー朝からカンダハールを奪い、その後も両国の係争地となった。
しかし、サマルカンド住民の多くがスンナ派であったこと、1514年、イスマーイール1世はオスマン帝国の軍勢にチャルディラーンの戦いで敗北したことなどから、これ以降、バーブルはサファヴィー朝の支援をあてにしなくなったが、これは中央アジアでの王朝樹立を放棄することになった。
バーブルはアフガニスタン周辺の支配を固め、1519年、最初のインド遠征を行う。1522年、サファヴィー朝からカンダハールを奪い、その後も両国の係争地となった。

バーブル
1523年、ローディー朝の内部抗争からバーブルのインド侵攻の口実ができた。
1524年、バーブルは挙兵しインドに侵攻、1525年にはパンジャーブを支配下に置いた。1526年4月、バーブルは火器を装備し、ローディー朝の軍をデリー付近のパーニーパットで破り、バーブルはデリーに入城する。
1524年、バーブルは挙兵しインドに侵攻、1525年にはパンジャーブを支配下に置いた。1526年4月、バーブルは火器を装備し、ローディー朝の軍をデリー付近のパーニーパットで破り、バーブルはデリーに入城する。

フマーユーン
この時代の世界
(この項おわり)
19世紀にイギリスの保護下に入り、1858年の大規模な反英闘争(インド大反乱)の鎮圧とともに滅亡する。