マゼランの世界周航

ビクトリア号

フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼランは、1480年頃、ポルトガルで生まれる。
1505年、ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダの艦隊に入り、初めて航海に出る。
航海者としての経験を積んだマゼランは、香辛料の産地として有名なモルッカ諸島への西回り航路開拓のために船長にしてもらえるよう、ポルトガル王・マヌエル1世に要請した。しかし、国王はこれを拒絶する。
1505年、ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダの艦隊に入り、初めて航海に出る。
航海者としての経験を積んだマゼランは、香辛料の産地として有名なモルッカ諸島への西回り航路開拓のために船長にしてもらえるよう、ポルトガル王・マヌエル1世に要請した。しかし、国王はこれを拒絶する。
嫌気がさしたマゼランはスペインに移り住み、1517年、スペイン王・カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会した。カルロス1世は心を動かされ、マゼランを艦隊長に任命した。

1519年9月20日、マゼランは旗艦トリニダー号(110トン)に乗船し、僚船のサン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻のカラベル船に265名の乗組員を乗せてスペインを出港する。
大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下していき、1520年1月9日にラプラタ河の河口に到着する。当時はここが太平洋へと出るための海峡の入り口だと考えられていた。マゼラン一行はは綿密な調査を行ったが、ここが海峡ではなく河であるということが判明した。
艦隊はさらに南下を続け、1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見する。この場所は後にマゼラン海峡と呼ばれることになる。マゼラン隊はわずか3隻になっていた。
マゼラン海峡は狭いうえに、速い潮流と多くの暗礁が広がる。マゼラン隊は奇跡的な操船で、わずか7日で通過し、穏やかな大海に抜け出る。マゼランはこの大海をマール・パシフィコ(El Mare Pacificum 平和の海、太平洋)と名づけた。

太平洋では島らしい島が見つからず、マゼラン隊は飢えに苦しめられた。
1521年3月16日、ようやくフィリピンのサマール島最南端に上陸する。
セブ島では現地の指導者ラジャ・フマボンをキリスト教に改宗させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、隣島のマクタン島の領主でイスラム教徒のラプ・ラプが反対し、マゼラン隊との戦闘になった。1521年4月27日、マゼランは戦死する。

残された乗組員は2隻の船に分乗してフィリピンを後にする。
1521年11月8日、ようやく目的地のモルッカ諸島にたどり着き、大量の香辛料を積み込んだ。だが、この時点で航行可能なのはビクトリア号1隻を残すだけだった。
1521年12月21日、モルッカ諸島を出発したビクトリア号は、喜望峰を回り、1522年9月6日にスペインに帰還した。
生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であった。船内ではビタミンC不足による壊血病が多くの船員の命を奪った。

1519年9月20日、マゼランは旗艦トリニダー号(110トン)に乗船し、僚船のサン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻のカラベル船に265名の乗組員を乗せてスペインを出港する。
大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下していき、1520年1月9日にラプラタ河の河口に到着する。当時はここが太平洋へと出るための海峡の入り口だと考えられていた。マゼラン一行はは綿密な調査を行ったが、ここが海峡ではなく河であるということが判明した。
艦隊はさらに南下を続け、1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見する。この場所は後にマゼラン海峡と呼ばれることになる。マゼラン隊はわずか3隻になっていた。
マゼラン海峡は狭いうえに、速い潮流と多くの暗礁が広がる。マゼラン隊は奇跡的な操船で、わずか7日で通過し、穏やかな大海に抜け出る。マゼランはこの大海をマール・パシフィコ(El Mare Pacificum 平和の海、太平洋)と名づけた。

太平洋では島らしい島が見つからず、マゼラン隊は飢えに苦しめられた。
1521年3月16日、ようやくフィリピンのサマール島最南端に上陸する。
セブ島では現地の指導者ラジャ・フマボンをキリスト教に改宗させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、隣島のマクタン島の領主でイスラム教徒のラプ・ラプが反対し、マゼラン隊との戦闘になった。1521年4月27日、マゼランは戦死する。

残された乗組員は2隻の船に分乗してフィリピンを後にする。
1521年11月8日、ようやく目的地のモルッカ諸島にたどり着き、大量の香辛料を積み込んだ。だが、この時点で航行可能なのはビクトリア号1隻を残すだけだった。
1521年12月21日、モルッカ諸島を出発したビクトリア号は、喜望峰を回り、1522年9月6日にスペインに帰還した。
生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であった。船内ではビタミンC不足による壊血病が多くの船員の命を奪った。
カール5世が即位

カール5世

マクシミリアン1世(デューラー画)
ハプスブルク家とヴァロワ朝フランス王国は、15世紀末からイタリアを巡って断続的に戦争を繰り返していた。これをイタリア戦争と呼ぶ。
1521年、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世はカール5世と結び、フランス支配下のミラノを奪還する。

1527年、カール5世のドイツ人傭兵がローマ略奪を起こす。ドイツ人傭兵を恐れた教皇クレメンス7世は、イングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、のちにイングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

1521年、宗教改革を起こしたマルティン・ルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、その主張を認めず、同調者達と共に帝国から追放した。ここでルターを処断しなかったことで、プロテスタントはヨーロッパ全土へ拡散することになる。
1524年、ドイツ農民戦争が起こり、結果的にドイツ諸侯の力が増すことになる。
1545年、ローマ教皇パウルス3世を支援しトリエント公会議を開催。カトリック教会の再生へ踏み出すことに成功した。

1529年、スレイマン1世が率いるオスマン帝国軍は地中海の制海権を握り、ウィーンを包囲した。カール5世は宿敵フランソワ1世と同盟を結び、オスマン帝国に対峙。1543年、クレピーの和約を結んだ。だが、オスマン帝国との戦いは、息子フェリペ2世に引き継がれ、1571年のレパントの海戦で決着する。

1555年、通風と戦争に疲れたカール5世は自ら退位する。
スペイン・ネーデルラントの地位と領土は息子のフェリペ2世に譲り、オーストリア・神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。こうして、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれることになった。
カール5世はスペインの修道院に隠棲し、58歳で亡くなった。
1521年、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世はカール5世と結び、フランス支配下のミラノを奪還する。

1527年、カール5世のドイツ人傭兵がローマ略奪を起こす。ドイツ人傭兵を恐れた教皇クレメンス7世は、イングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、のちにイングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

1521年、宗教改革を起こしたマルティン・ルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、その主張を認めず、同調者達と共に帝国から追放した。ここでルターを処断しなかったことで、プロテスタントはヨーロッパ全土へ拡散することになる。
1524年、ドイツ農民戦争が起こり、結果的にドイツ諸侯の力が増すことになる。
1545年、ローマ教皇パウルス3世を支援しトリエント公会議を開催。カトリック教会の再生へ踏み出すことに成功した。

1529年、スレイマン1世が率いるオスマン帝国軍は地中海の制海権を握り、ウィーンを包囲した。カール5世は宿敵フランソワ1世と同盟を結び、オスマン帝国に対峙。1543年、クレピーの和約を結んだ。だが、オスマン帝国との戦いは、息子フェリペ2世に引き継がれ、1571年のレパントの海戦で決着する。

1555年、通風と戦争に疲れたカール5世は自ら退位する。
スペイン・ネーデルラントの地位と領土は息子のフェリペ2世に譲り、オーストリア・神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。こうして、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれることになった。
カール5世はスペインの修道院に隠棲し、58歳で亡くなった。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
ハプスブルク帝国 | ||
著者 | 岩崎 周一 | ||
出版社 | 講談社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2017年08月17日頃 | ||
価格 | 1,430円(税込) | ||
ISBN | 9784062884426 | ||
弱小城主から元祖「日の沈まぬ帝国」の皇帝へ。広大な版図と多種多様な民族を支配下に置き、千年の命脈を保った世界史上ユニークな「帝国」。奇人皇帝ルードルフ二世から悲劇の皇妃エリーザベトまで。音楽の都、世紀末芸術の都としてのウィーンから、サラエヴォの銃声に始まり、敗戦と帝国瓦解で終わった第一次世界大戦まで。様々な人物とエピソードに彩られた歴史を一冊の新書ですべて描く。 1273年、ドイツ南西部の雄として知られたルードルフ四世が、ドイツ王に選出されます。各国の相反する利害関係からの、「より悪くない選択」としての選出でした。しかしこの偶然が、その後の「ハプスブルク帝国」大発展の基礎となりました。 ヨーロッパ列強との婚姻関係がもたらした偶然も幸いして、帝国の版図は拡大の一途をたどります。なかでもスペインを領有したことで、その領土は中南米そしてアジアにも及ぶ広大なものとなり、「日の沈むところなき帝国」とまで呼び習わされるに至りました。19世紀のイギリスではなく、この時期のハプスブルク帝国こそが、元祖「日の沈むところなき帝国」だったのです。 その後も二度にわたるオスマン帝国のウィーン包囲の脅威をはねのけ、オスマンからの失地回復にも成功するなど、ヨーロッパの大国としての地位は維持されます。しかし19世紀になると徐々にフランス、イギリスなどのより「近代的」な国々の後塵を拝するようになります。そして自国の皇位継承者暗殺を発端として勃発した第一次世界大戦での敗北により、ついに終焉の瞬間を迎えます。 本書は、現在のオーストリア、ハンガリー、チェコ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどに相当する地域を中心とする広大な版図と、そこに住まう多種多様な民族を支配下に置き、曲がりながりにも1000年の命脈を保った世界史上にもユニークな「帝国」の歴史を一冊の新書で描ききった意欲作です。 はじめに 第一章 勃興 第二章 オーストリアの地で 第三章 「さらに彼方へ」 第四章 「ドナウ君主国」の生成 第五章 主権国家体制の下で 第六章 「何事も人民のために、何事も人民によらず」 第七章 秩序と自由 第八章 「みな一致して」 第九章 ハプスブルク神話 あとがき | |||
(この項おわり)
南米最南端のマゼラン海峡を通り抜けた一行は、1522年にスペインに戻ってくる。しかし、マゼラン自身は1521年にフィリピンのハイチで現地人によって殺され、帰国した船もわずか1隻18人だけという過酷な航海であった。