

1989年4月15日、胡耀邦の死亡が公表されると、その死を悼む学生たちのデモ行進が始まる。

5月16日、迎賓館で、ソ連のゴルバチョフ書記長と趙紫陽書記の会談が行われる。この場で趙紫陽は中国の実権が鄧小平にあることを発言したため、翌日、天安門広場はデモ行進で埋め尽くされた。天安門広場には自由の女神の張りぼてが立てられ、人々は民主化を求めた。

5月16日、迎賓館で、ソ連のゴルバチョフ書記長と趙紫陽書記の会談が行われる。この場で趙紫陽は中国の実権が鄧小平にあることを発言したため、翌日、天安門広場はデモ行進で埋め尽くされた。天安門広場には自由の女神の張りぼてが立てられ、人々は民主化を求めた。
5月19日、天安門前広場に座り込みを続ける学生たちの前に趙紫陽が現れ、ハンストをやめるよう呼びかけた。ところがこれ以降、趙紫陽は政治の表舞台から姿を消してしまう。

鄧小平は上海から江沢民を呼び寄せ、共産党総書記に据えた。そして、民主化を求めるデモにタイする弾圧を開始。
ついに6月4日、天安門広場の群衆に向かって発砲することになる。

鄧小平は上海から江沢民を呼び寄せ、共産党総書記に据えた。そして、民主化を求めるデモにタイする弾圧を開始。
ついに6月4日、天安門広場の群衆に向かって発砲することになる。
この時代の世界
参考書籍
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(この項おわり)
1979年、失脚した華国鋒の後を受けて鄧小平が中国の実権を握る。鄧小平は、経済の改革・開放路線を推し進めた。
その結果、西欧から様々な情報がもたらされ、1982年12月には安徽省の科学技術大学で学生が民主化を求める集会を開いた。鄧小平の弟子で、共産党の胡耀邦総書記は、学生運動を弾圧することなく見守った。
しかしこのことが共産党保守派の反感を買い、胡耀邦は失脚。やはり鄧小平の弟子であった趙紫陽が総書記となった。