
1989年11月9日、当時の東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表したことを契機に、東ベルリンと西ベルリンの市民が「ベルリンの壁」を破壊し始める。
壁の建設
1961年8月13日午前0時、東ドイツは東西ベルリンの間にある道路を全て閉鎖し、有刺鉄線による封鎖を敢行した。2日後には石造りの「ベルリンの壁」の建設された。
壁は何度か作り直され、1975年に完成した最終形態では、総延長155キロに及ぶ二重のコンクリートの壁となった。
壁は何度か作り直され、1975年に完成した最終形態では、総延長155キロに及ぶ二重のコンクリートの壁となった。
2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっており、東ドイツ当局が、壁を越えて西ベルリンへ脱出する者がいないかどうか監視していた。
壁の数カ所には検問所が設けられており、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。
壁の数カ所には検問所が設けられており、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。
壁の崩壊
1989年11月9日、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案された。ところがこの時、政府首脳部は国内外の問題に忙殺されており、たいした審議も行われないまま、「11月10日からベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」という政令を出した。
これを受け、東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキーは、政令の内容をよく知らないまま記者会見に臨み、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表してしまった。
さらにマスコミが「東西ベルリンの間で旅行が自由化される」と強調して報道したため、東ベルリン市民は東西ベルリンの検問所に大挙して押しかけた。9日夕方には、その数は数万人に膨れあがったが、だが国境警備隊は具体的な指令を受けておらず、市内数カ所の検問所で市民と警備隊とのもみ合いが始まる。

この年6月に中国で起きた天安門事件の影響もあり、警備隊は武力弾圧に出ることはできなかった。
とうとう警備隊は群衆に屈して、9日夜遅く、検問所を開放する。
それから数時間後、突如としてハンマーやつるはしを持った人々が押し寄せ、東ドイツ当局の許可がないままベルリンの壁の破壊が始まった。

間もなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。
11月28日、西ドイツのコール首相は「ドイツ再統一10項目案」発表。
翌1990年7月1日、東西の通貨が統合された。そして、10月3日、ついに東西ドイツは再統合される。
これを受け、東ドイツ政府のスポークスマンであったギュンター・シャボウスキーは、政令の内容をよく知らないまま記者会見に臨み、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表してしまった。
さらにマスコミが「東西ベルリンの間で旅行が自由化される」と強調して報道したため、東ベルリン市民は東西ベルリンの検問所に大挙して押しかけた。9日夕方には、その数は数万人に膨れあがったが、だが国境警備隊は具体的な指令を受けておらず、市内数カ所の検問所で市民と警備隊とのもみ合いが始まる。

この年6月に中国で起きた天安門事件の影響もあり、警備隊は武力弾圧に出ることはできなかった。
とうとう警備隊は群衆に屈して、9日夜遅く、検問所を開放する。
それから数時間後、突如としてハンマーやつるはしを持った人々が押し寄せ、東ドイツ当局の許可がないままベルリンの壁の破壊が始まった。

間もなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。
11月28日、西ドイツのコール首相は「ドイツ再統一10項目案」発表。
翌1990年7月1日、東西の通貨が統合された。そして、10月3日、ついに東西ドイツは再統合される。
冷戦終結
ベルリンの壁崩壊を受け、地中海のマルタ島会談を行っていたソ連の最高指導者ゴルバチョフとアメリカ大統領ジョージ・ブッシュは、1989年12月3日、冷戦の終結を宣言した。(1989: Malta summit ends Cold War - BBC, ON THIS DAY)
この時代の世界
(この項おわり)