西暦663年 - 白村江の戦い

日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗北
朝鮮半島
663年8月28日、朝鮮半島の白村江の戦い (はくそんこうのたたかい) において、日本・百済 (くだら) 連合軍は唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に敗れる。
659年、百済の侵略を受けた新羅武烈王 (ぶれつおう) は唐に援軍を要請する。翌年、唐は13万の兵を派遣し、新羅とともに百済を滅ぼす。
百済の王族・廷臣はレジスタンス活動を続け、その中の鬼室福信 (きしつふくしん) は300年近く友好関係にあった日本に援軍を要請した。

661年、斉明天皇 (さいめいてんのう) は船団を率いて遠征に出発する。途中、大勢の兵を集め、大勢の兵を運搬するために朝鮮で開発された最新の平底船を建造した。そして博多の南にある朝倉に宮を構え、ここから指揮を執ることになる。
ところが7月に斉明天皇が没したため、息子の中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) (のちの天智天皇 (てんじてんのう) )は皇子のまま軍団を指揮することになる。

662年8月、百済の皇子・扶余豊璋 (ふよ ほうしょう) を護送する先遣隊5千人が出発。当初、豊璋鬼室福信は協力して戦ったが、のちに対立。豊璋鬼室福信を殺害してしまう。
白村江の戦い
白村江の戦い
663年3月、日本軍はさらに2万7千の兵を増援した。こうして朝鮮半島で白村江の戦いが起きる。
白村江のある朝鮮半島南西は、潮の干満差が大きいところで7メートルもある。干潮になると、日本軍の船は身動きがとれなくなってしまった。頼みの鬼室福信はなく、寄せ集めの兵士ばかりの日本軍は総崩れとなり、唐・新羅連合軍に大敗北を喫する。
金田城
金田城
中大兄皇子は、唐や新羅の侵攻に備え、大宰府に濠を掘って、各地に山城を築いた。また、兵役として集めた防人 (さきもり) を、664年に対馬に配置し、西日本各地に配置した。
667年に、対馬の浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とし、674年には厳原が正式な国府の地に決まった。対馬国司守忍海造大国 (おしみのみやつこのおおくに) は、対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。
唐や新羅の侵攻を恐れた中大兄皇子は、大津(現在の滋賀県)に都を築いた。これが大津宮 (おおつのみや) である。百済の王族や貴族が日本へ亡命し、官僚を育成した。これが大化の改新を後押しし、日本は中央集権化が進む。

参考書籍

表紙 白村江 古代東アジア大戦の謎
著者 遠山 美都男
出版社 講談社
サイズ 新書
発売日 1997年10月15日頃
価格 946円(税込)
ISBN 9784061493797
二日間の戦闘を読み解く。海水みな赤しー唐・新羅連合軍の前に倭国の百済救援作戦は打ち砕かれた。日本の国家形成途上に起こった壮大なパワーゲームを検証し、古代史の通説を覆す力作。
 

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