西暦755年 - 安史の乱

唐帝国の凋落
楊貴妃
節度使の安禄山 (あんろくざん) は、6カ国語を操る弁舌巧みな人物であった。彼は200キロを越す巨漢であったが、唐の第6代皇帝・玄宗が「その膨らんだ腹の中には何が入っているのか」と尋ねると、「ただ忠誠のみが入っています。」と応じた。その後、宰相・李林甫 (りりんぽ) 楊貴妃 (ようきひ) の従兄・楊国忠 (ようこくちゅう) を使い、巧みに皇帝に取り入る。

しかし、楊国忠が宰相になると対立するようになり、武将の史思明 (ししめい) と組み、755年、反乱を起こす。反乱軍は都を占領し、玄宗は一時、四川へ逃れるが、その途中で楊貴妃と一族は殺害される。同時に、皇太子李亨 (りきょう) は、側近である宦官李輔国の建言を容れ、玄宗の同意を得ないまま粛宗 (しゅくそう) として即位し、玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。

安禄山は757年に暗殺されるが、その後も史思明が反乱軍を指揮した。
唐は、反乱を鎮圧するためにウイグル帝国に援軍を求め、757年、長安の奪還に成功する。だが、ウイグル帝国から多額の貢物を求められるようになる。唐は東アジアの盟主の地位を失ってゆく。
759年、史思明は洛陽を攻め落とすが、761年に長男の史朝義に殺害される。
762年4月、玄宗が逝去すると、直後に粛宗も逝去し、第11代皇帝として代宗 (だいそう) が即位した。長男の徳宗 (とくそう) は大元帥に任じられた。
762年、唐・ウイグル連合軍は洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、763年に自殺。安史の乱はようやく鎮圧される。

この後の唐では、軍閥と化した節度使の力を削ぐことは難しく、中央でも宦官による権力闘争が激しくなって、民の生活が顧みられなくなる。
代宗の崩御にともない、779年に第12代皇帝として即位した徳宗は、財政再建や税制改革を行ったが、節度使の反乱を招くなど、成果は乏しかった。
やがて農民反乱が相次ぐようになり、黄巣ひきいる反乱軍に長安を落とされて、唐は滅亡することになる。

楊貴妃は悪女ではない?

楊貴妃は、唐の最盛期をもたらした玄宗皇帝を虜にし、安史の乱を招いた悪女とされる。だが中国では、楊貴妃は単に美しかっただけで政治的野心はなかったと考えられている。
楊貴妃は歌舞音曲が得意だったと言われており、音楽好きの玄宗とウマがあった可能性が高い。

735年、楊貴妃は玄宗の息子の寿王の妃となるが、玄宗に見初められ、737年に武恵妃 (ぶけいひ) が亡くなると、皇后に次ぐ貴妃となる。だが、楊貴妃は最期まで皇后とはならなかった。これこそ彼女の野心の無さの表れである。
一方、李林甫は楊貴妃を巧みに操り、玄宗を政治の現場から遠ざけたというのだ。

この時代の世界

625 675 725 775 825 755 763 安史の乱 685 762 玄宗 719 756 楊貴妃 705 757 安禄山 710 761 史思明 711 762 粛宗 726 779 代宗 742 805 徳宗 751 タラス河畔の戦い 688 763 鑑真 752 大仏の開眼供養 701 756 聖武天皇 701 760 光明皇后 718 770 孝謙天皇→称徳天皇 709 781 光仁天皇 784 長岡京へ遷都 794 平安京へ遷都 694 藤原京に遷都 683 707 文武天皇 701 大宝律令 668 749 行基 710 平城京に遷都 680 748 元正天皇 768 春日大社の創建 737 806 桓武天皇 732 トゥール・ポアティエの戦い 712 775 マンスール 750 アッバース朝が成立 766 809 ハールーン・アッラシード 786 ハールーン・アッラシードが即位 731 788 アブド・アッラフマーン1世 714 768 ピピン 800 カールの戴冠 742 814 カール大帝 750 816 レオ3世 793 ヴァイキングがイングランドへ侵入 760 811 ニケフォロス1世 793 ヴァイキングがイングランドへ侵入 Tooltip
(この項おわり)
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