西暦1219年 - 源実朝の暗殺

源氏の将軍は3代で絶える
源実朝
源実朝
1219年(建保6年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝 (みなもとのさねとも) が鶴岡八幡宮で公暁 (くぎょう) によって暗殺される。

鎌倉幕府を開いた源頼朝 (みなもとのよりとも) の嫡男・源頼家 (みなもとのよりいえ) は、18歳で2代将軍となる。しかし、武士たちの領地を勝手に奪い、他の者に与えたり、土地を巡る武士同士の争いを不正に裁くという行為が絶えず、武士の不満は高まった。
隠れ銀杏 - 鶴岡八幡宮
隠れ銀杏 - 鶴岡八幡宮
頼家が将軍職に就くのとほぼ同時期、13人の有力者による合議制がはじまる。
1199年(建久10年)、13人の一人、頼家の側近である梶原景時が失脚。さらに、1203年(建仁3年)、頼家に北条時政 (ほうじょうときまさ) 追討を進言した比企能員が滅ぼされる。
こうして北条時政は鎌倉武士の声に押される形で、1203年(建仁3年)9月、クーデターを指導。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆に追放された。

頼家に代わって3代将軍の座についたのは、わずか12歳の弟の実朝だった。実朝を補佐する執権に時政が就任した。時政は伊豆に幽閉されていた頼家を暗殺し、実朝も亡き者にしようと機会を伺うようになった。
危機感を抱いた母の北条政子 (ほうじょうまさこ) は、実朝北条義時 (ほうじょうよしとき) の館に匿った。武士たちは義時の館に集まり、観念した時政は伊豆へ流される。

身体が弱く武芸も得意ではなかった実朝は、京都の持つ高い文化の香りに惹かれ和歌を好んだ。実朝が詠んだ和歌は、藤原定家 (ふじわらのさだいえ) に認められ、後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう) の前で披露された。
実朝は歌人としても知られるようになった。92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集 (きんこんわかしゅう) がある。

実朝は、和歌を通じて知った朝廷政治を理想として実践しようとしていた。政治も合議制によって行い、武士たちの意見を積極的に取り入れようとした。一方で、朝廷との結びつきを深めるため、将軍領に対する納税にも積極的に応じた。
実朝は後鳥羽上皇との交流を深め、官位の昇進は早く、1218年(建保5年)12月、武士として初めて右大臣に任ぜられた。
しかし、せっかく朝廷から政権を奪い取った武士たちにしてみれば、こうした実朝のやり方に反感を抱くようになった。

1219年(建保6年)1月27日、右大臣就任を祝うため、実朝鶴岡八幡宮を参拝した。その帰路、実朝は公暁に襲われ落命する。
この事件は、執権・北条義時が仕掛けたものだった。公暁はその場から逃げたものの、間もなく討ち取られる。実朝には子どもがいなかったため、源氏の将軍はここで絶えることになる。
義時は、4代将軍として、源氏より格上の皇子の下向を画策したが、これは失敗に終わり、代わりに摂関家九条家から九条頼経 (くじょう よりつね) を迎え入れた。

北条義時の足跡

北条義時
北条義時
NHK大河ドラマ第61作『鎌倉殿の13人』(2022年1月9月放映開始)は、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時を主人公に、平安時代末から鎌倉時代前期の時代を描く。

1163年(応保3年)、北条義時北条時政の次男として産まれる。江間小四郎と呼ばれ、分家の江間家の初代だったと考えられている。
源頼朝(足利直義とも)
源頼朝(足利直義とも)
1178年(治承2年)頃、伊豆の国に流されていた源頼朝は、北条時政の長女・政子と結婚する。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、北条時政と長男・宗時、次男・義時が参戦するが、石橋山の戦いに敗れ、宗時は戦死。頼朝らは真鶴岬から安房国(現・千葉県南部)へ逃れる。8月29日、頼朝は安房国に上陸し、安西景益 (あんざい かげます) の館(平松城址)に一時逗留し、再起を図る。
北条時政
北条時政
9月13日に安房国を出発。上総広常千葉常胤と合流し、隅田川を渡って武蔵国に入り、多くの関東武士を従え、10月6日、鎌倉に入る。
石橋山の戦いの後、時政・義時は甲斐源氏と行動を共にし、駿河国へ侵攻。頼朝と合流し、11月、平維盛ら源氏追討軍を富士川で対峙する(富士川の戦い)。
源義経
源義経
だが、大規模な戦闘が行なわれないまま追討軍は撤退する。『吾妻鏡』によると、追討軍は水鳥の羽音を源氏の大軍の来襲と誤認し、総崩れとなって壊走したという。

1180年(治承4年)11月、奥州から源義経が参戦し、源頼朝の軍勢が常陸佐竹氏が立てこもる金砂城を攻め落とす。1183年(寿永2年)、源頼朝は、源義広、足利忠綱らを破り、板東を平定する。
1183年(寿永2年)5月、源義仲(木曾義仲)は倶利伽羅峠 (くりからとうげ) の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、7月、入京する。都の防衛を断念した平氏は安徳天皇を連れ、西国へ逃れる。
源義仲(木曾義仲)
源義仲(木曾義仲)
頼朝の上洛を恐れる義仲は、後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引き出す。頼朝は範頼・義経らを出陣させ、1184年(寿永3年)1月、宇治川の戦い (うじがわのたたかい) で義仲を討つ。
源義経像(壇ノ浦)
源義経像(壇ノ浦)
1185年(元暦2年)1月、後白河法皇から西国出陣の許可を得た源義経は、2月、鵯越 (ひよどりごえ) の逆落としを敢行し、一ノ谷に陣取っていた平家軍を蹴散らした(一の谷の戦い)。続く屋島の戦いで平家を海上へ追いやり、3月24日の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡する。

5月、義経は相模国に凱旋するが、頼朝は義経の専横ぶりに閉口し鎌倉入りを許さなかった。義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は帰洛を命じる。京都へ戻った義経は頼朝追討の勅許を引き出すが、義経・頼朝両軍に兵が集まらず、義経は戦わず京を落ち行方をくらます。
中尊寺
中尊寺
源義経の奥州潜伏が発覚し、頼朝は朝廷に奏上し、藤原基成藤原泰衡に義経追討宣旨が下された。1189年(文治5年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡は衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。
頼朝は7月、鎌倉を発して泰衡追討に向かい奥州合戦が始まる。
毛越寺
毛越寺
9月3日、泰衡は郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首が頼朝へ届けられた。
奥州合戦には、関東のみならず全国各地の武士が動員された。また、捕虜となっていた武士も、この合戦に従って戦功を上げるという挽回の機会が与えられた。こうして武士たちと源頼朝の主従関係が強化された。
後白河法皇
後白河法皇
1190年(建久元年)10月、源頼朝は鎌倉を発ち上洛する。11月から12月にかけ京都に滞在した頼朝は、後白河法皇と会合を重ね、武家政権の地位を固める。
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇
1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御し、後鳥羽天皇が即位すると、頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。
1192年(建久3年)9月25日、北条義時は、頼朝の仲介により比企朝宗の娘、姫の前を正室に迎え、翌年に嫡男・朝時をもうける。なお、義時は21歳の時に長男・泰時をもうけている。
1193年(建久4年)5月16日、富士の巻狩りが催され、12歳になった源頼家が初めて鹿を射止めた。28日、御家人の工藤祐経 (くどう すけつね) が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わり、源範頼に謀反の嫌疑がかけられ、伊豆へ流された。
土御門天皇
土御門天皇
1198年(建久9年)正月、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位して上皇となり院政を開始する。12月、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩し、1199年(建久10年)1月13日に死去する。
源頼家が、わずか18歳であとを継ぐが、訴訟を直接聞くなど失策が続いたため、北条時政ら宿老13人の合議により頼家に取り次ぐ体制が固まる。
源頼家
源頼家
13人の構成‥‥北条時政、北条義時、比企能員、和田義盛、梶原景時、足立遠元、八田知家、三浦義澄、安達盛長、大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信
1199年(正治元年)11月、鎌倉幕府侍所所司として御家人たちの取り締まりにあたっていた梶原景時が、御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族の多くが滅ぼされた。こうして、はやくも13人の一角が失われることになる。
梶原景時
梶原景時
1203年(建仁3年)7月に頼家が病に伏すと、時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を謀殺し、比企氏を滅ぼした。さらに、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放し、頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立する。そして、大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握った。
1204年(建仁4年)に、北条本家の後継者・政範が急死すると、翌年、義時は時政牧の方を伊豆国に追放し、政所別当の地位に就いた。
和田義盛
和田義盛
義時は政子実朝を立てながら、御家人の要望に耳を貸すなど柔軟な姿勢をとりつつも、敵対する有力御家人を抑圧し、次第に独裁制を固め、執権と呼ばれるようになる。1213年(建暦3年)2月に、義時は、侍所別当の地位にあった和田義盛を滅ぼし、侍所別当となり、幕府の要職を独占する。

冒頭で述べたとおり、1219年(建保6年)正月27日、鶴岡八幡宮で実朝公暁によって暗殺され、源氏の正統が絶える。
藤原頼経
藤原頼経
この日、義時は、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴え、代役として参加した源仲章 (みなもとの なかあきら) も殺されてしまう。
義時は、4代将軍として、源氏より格上の皇子の下向を画策したが、これは失敗に終わり、代わりに頼朝の遠縁に当たる摂関家九条家から藤原頼経 (ふじわらの よりつね) を迎え入れた。政子が尼将軍として頼経の後見と鎌倉殿の地位を代行し、義時が補佐して実務面を補う執権政治が確立した。
北条政子
北条政子
将軍後継問題で後鳥羽上皇との対立が深まり、1221年(承久3年)に承久の乱が起きる。結果は鎌倉幕府の圧勝で、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇は配流になり、上皇の広大な荘園は幕府の管理するところとなった。幕府は京都守護の代わりに六波羅探題 (ろくはらたんだい) を設け、朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになった。こうして武家政権が確立する。

この時代の世界

1075 1125 1175 1225 1275 1219 源実朝の暗殺 1192 1219 源実朝 1200 1219 公暁 1133 1215 北条時政 1163 1224 北条義時 1147 1199 源頼朝 1157 1225 北条政子 1159 1189 源義経 1154 1184 源義仲 1192 源頼朝、征夷大将軍に任官 1182 1204 源頼家 1183 1242 北条泰時 1138 1179 平重盛 1180 1239 後鳥羽天皇 1118 1181 平清盛 1127 1192 後白河天皇 1142 1176 平滋子 1122 1187 藤原秀衡 1150 1203 比企能員 1168 1239 三浦義村 1221 承久の乱 1179 治承三年の政変 1178 1185 安徳天皇 1152 1214 平徳子 1185 壇ノ浦の戦い 1173 1262 親鸞 1200 1253 道元 1232 御成敗式目 1162 1241 藤原定家 1203 東大寺南大門金剛力士像 1195 1231 土御門天皇 1197 1242 順徳天皇 1215 大憲章(マグナ・カルタ) 1167 1216 ジョン 1165 1223 フィリップ2世 1209 ケンブリッジ大学の創設 1182 ノートルダム大聖堂の完成 1181 1252 プラノ・カルピニ 1241 ワールシュタットの戦い 1196 1241 ヘンリク2世 1194 1250 フリードリヒ2世 1195 1254 インノケンティウス4世 1241 ワールシュタットの戦い 1206 モンゴル帝国の成立 1167 1227 チンギス・ハン 1186 1241 オゴタイ 1207 1255 バトゥ 1190 1244 耶律楚材 1181 ジャヤーヴァルマン7世が即位 1181 1218 ジャヤーヴァルマン7世 1243 キプチャク汗国の成立 1177 1225 ジョチ 1200 1250 トゥーラーン・シャー 1209 1259 モンケ 1218 1265 フラグ 1243 キプチャク汗国の成立 1171 アイユーブ朝が成立 1187 ヒッティーンの戦い 1178 1241 スノッリ・ストゥルルソン 1221 1223 スノッリのエッダ 1204 1263 ホーコン4世 Tooltip

参考書籍

表紙 北条氏の時代
著者 本郷 和人
出版社 文藝春秋
サイズ 新書
発売日 2021年11月18日頃
価格 990円(税込)
ISBN 9784166613373
鎌倉幕府百五十年の歴史をつくった謎の一族、北条氏。名もなき一介の武士の一族が、なぜ政権を奪取し日本を動かし続け、最後は族滅したのか。時政、義時、泰時…、歴代の北条家当主のリーダーシップから読み解く鎌倉通史の決定版。
 
表紙 その時歴史が動いた 第33巻
著者 日本放送協会
出版社 アノニマ・スタジオ
サイズ 全集・双書
発売日 2005年06月
価格 1,760円(税込)
ISBN 9784877583460
栄華と挫折、武士の時代の変革者たち。
 

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号)は、鎌倉武士の守護神で、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定されている。

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(この項おわり)
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