西暦1185年 - 壇ノ浦の戦い

平氏が滅亡する
和布刈神社 - 関門海峡 元暦 2 年 3 月 24 日(1185 年 4 月 25 日)、平知盛 (たいらのとももり) が指揮を執る平氏の水軍500艘と、摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけた源義経 (みなもとのよしつね) が指揮する 840艘が、壇ノ浦 (だんのうら) (現在の山口県下関市)で衝突する。壇ノ浦の戦いである。
源義経 治承 4 年(1180 年)8 月、伊豆に流されていた源頼朝 (みなもとのよりとも) が挙兵した。この知らせは、東北に隠れ住んでいた異母弟の源義経にも届き、10 月、義経は頼朝軍に合流した。

寿永 3 年(1184 年)2 月 7 日、義経は一ノ谷の戦いで平氏軍を奇襲し、敗走させる。
後白河法王は、平氏とともに敗走した安徳天皇 (あんとくてんのう) に代わり、5 歳の後鳥羽天皇を立てた。
戦いに勝利した義経は、後白河法皇から検非違使 (けびいし) に任じられた。ところが頼朝は、義経が報告なく官位を受けた振る舞いが源氏の結束を乱すものとして糾弾し、義経を源氏軍から外した。
敗走した平氏軍は、瀬戸内海の交通の要衝である四国の屋島と彦島に布陣し、地元の水軍と力を合わせて守りを固めた。源氏軍はこれを攻略しようとするが、水軍をほとんど持たない源氏軍は苦戦を強いられていた。
元歴 2 年(1185 年)2 月 17 日、ようやく義経に出陣の命令が下った。義経はわずか 5艘の手勢を率いて瀬戸内海へ向かい、平氏側の水軍を寝返らせるなどして味方を増やした。

元暦 2 年(1185 年)3 月 24 日正午、ついに壇ノ浦の戦いの火ぶたが切って落とされた。
当初は海戦慣れしている平氏が優勢だったが、午後には潮目が変わり、平氏の船と源氏の船がいたるところで衝突し、白兵戦となった。
平氏の敗戦が色濃くなってくると、二位尼 (にいのあま) (平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は、まだ 8 歳の安徳天皇 (あんとくてんのう) を抱き三種の神器を身につけて入水した。
戦いは終わり、源氏軍は三種の神器の捜索を行ったが、勾玉と鏡は見つかったものの、草薙剣は発見できなかったと言われている。

義経は、建礼門院 (けんれいもんいん) (安徳天皇の母で清盛の娘)や捕虜を連れて京へ凱旋した。
後白河法皇は褒美として義経とその配下の御家人たちに官位を与えた。ところが、これを知った源頼朝は激怒し、義経の鎌倉入りを拒絶した。
この後、頼朝と義経の対立は激化し、文治 5 年(1189 年)閏4 月、義経は奥州藤原氏とともに滅ぶことになる。

参考書籍

表紙 源義経のすべて 新装版
著 者 奥富敬之
出版社 新人物往来社
サイズ 単行本
発売日 2004-10-01
価 格 2,940円(税込)
rakuten
ISBN 9784404032232
 
YEAR
1100
1125
1150
1175
1200
1225
1250
 
1185
 
安徳天皇
1178
 
1185
 
1152
平徳子
1214
 
1159
源義経
1189
 
1147
源頼朝
1199
 
1154
源義仲
1184
 
1118
平清盛
1181
 
1138
平重盛
1179
 
1179
 
 
1127
後白河天皇
1192
 
1180
後鳥羽天皇
1239
 
1192
 
 
1133
北条時政
1215
 
1157
北条政子
1225
 
1182
源頼家
1204
 
1163
北条義時
1224
 
1118
西行
1190
 
1133
法然
1212
 
1141
栄西
1215
 
1182
 
 
1206
 
 
1167
チンギス・ハン
1227
 
1130
朱熹(朱子)
1200

壇ノ浦付近の地図

【自動車】
  • 中国道「下関IC」より壇の浦方面へ 5 分で、みもすそ川公園に到着。無料駐車場有り。

この付近でネットができる宿

(この項おわり)
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