西暦1192年 - 源頼朝が征夷大将軍に任官

鎌倉幕府の体制が整う

いい国(1192)つくろう鎌倉幕府

源頼朝
源頼朝(足利直義とも)
1192年(建久3年)、源頼朝 (みなもとのよりとも) が征夷大将軍に任じられた。
だが実際には、これ以前から頼朝による統治機構が働いていたという説が有力で、現在は鎌倉幕府の始まりの年を1192年(建久3年)と特定はしていない。

ちなみに、ガッツ石松の伝説のひとつとして、「よい国つくろう鎌倉幕府」がある。これによると、はるか未来の4192年(令和2174年)に鎌倉幕府が始まるようである(笑)。
以仁王
以仁王
平治の乱で伊豆に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)、わずか300名の手勢を連れ挙兵する。後白河法皇 (ごしらかわほうおう) の皇子、以仁王 (もちひとおう) が平氏追討に失敗し、源氏の嫡流である頼朝も平清盛から狙われることになったため、先制攻撃に出たのだ。
石橋からの眺め
石橋からの眺め
当初は優勢だった頼朝軍だったが、石橋山(現在の神奈川県小田原市)で大庭景親 (おおがかげちか) らの軍に破れ、相模湾を渡って安房国(現在の千葉県南部)へ逃れた。
伝説の岩屋 - 野島崎
伝説の岩屋 - 野島崎
頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常 (かずさ ひろつね) 千葉常胤 (ちば つねたね) らに加勢を要請し、彼らも平氏打倒に立ち上がった。
頼朝は遂に鎌倉へ入り、ここに拠点を構えた。家臣である御家人を統制する侍所を設置した。
歴史学者の本郷和人氏は、鎌倉を拠点にした1180年(治承4年)を鎌倉幕府の成立と主張する。

翌1181年(治承5年)、平清盛が死去したが、平家は平重衡 (たいら の しげひら) を総大将として東国征伐に向かう。和田義盛 (わだ よしもり) がこれに対峙し、平家軍は遠江 (とうとうみ) (静岡県西部)で引き返した。
木曽義仲
木曽義仲
その頃、源義仲 (みなもとのよしなか) (木曽義仲)は信濃や甲斐で勢力を伸ばしていた。
1183年(寿永2年)7月、平氏が京を見捨てて脱出し、代わりに源義仲が京都に入った。こうして、地方の荘園は、平氏、源義仲源頼朝の支配下に入り、京の物資・食料は欠乏していった。
一方の源頼朝も、依然として謀反人のままで、官位と名誉の回復を望んでいた。また、京都入りも源義仲に先んじられてしまった。
後白河法皇
後白河法皇
京に入った義仲軍は統制がとれておらず、略奪を行ったり、皇位継承に介入したため、貴族から反感を買った。後白河法皇源頼朝と手を結ぶべく、1183年(寿永2年)10月、頼朝による東国の支配権を認める宣旨 (せんじ) を発した。
頼朝の命を受けた源範頼 (みなもと の のりより) 源義経は粟津の戦いで義仲を討ち、そのまま平氏追討に向かった。1184年(寿永3年)2月、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平家は九州・四国へ逃れた。
壇ノ浦古戦場址
壇ノ浦古戦場址
1184年(元暦元年)10月、源頼朝は公文所(のちの政所)、問注所を開き、鎌倉政権を形作っていった。なお、この時点では幕府という組織や呼び名はなく、鎌倉に集まった東国武士集団に過ぎなかった。

1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶと、後白河法皇は頼朝に勅許を発し、全国の守護・地頭の任命権を与えた。
1185年(元暦2年)4月、平家追討で義経の補佐を務めた梶原景時からの弾劾状を皮切りに、義経の処罰を求める声が上がり、義経は鎌倉へ帰参できないまま行方をくらました。1188年(文治4年)2月、義経が欧州に潜伏していることが発覚し、頼朝の申請を受けた朝廷が、藤原基成と藤原泰衡に義経追討宣旨をくだし、義経は自害に追い込まれた。
1189年(文治5年)7月、源頼朝は義経討伐を言いがかりに、奥州へ出兵。奥州藤原氏を滅ぼす。
1190年(建久元年)11月、後白河法皇に拝謁した源頼朝は、征夷大将軍より地位の高い権大納言兼右近衛大将に任じられた。
1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御。7月、後鳥羽天皇によって源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。

以上のような経緯から、最近の歴史の教科書では、1192年(建久3年)を鎌倉幕府のはじまりと明記しなくなった。1183年(寿永2年)から1192年の間に幕府が成立したと考えられている。
さて、源頼朝の正室、北条政子 (ほうじょうまさこ) 北条時政 (ほうじょうときまさ) の長女である。北条氏は平氏の出と言われている。
時政は平治の乱に破れて伊豆に流されていた頼朝の監視役であった。ところが政子が頼朝と駆け落ちしてしまったため、この後の時政は源氏に荷担することとなる。そして、鎌倉幕府の初代執権 (しっけん) となる。

政子は、頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家 (よりいえ) 実朝 (さねとも) が相次いで暗殺された後、京から招いた幼い藤原頼経 (ふじわらのよりつね) の後見となって幕政の実権を握り、尼将軍 (あましょうぐん) と称された。その後、鎌倉幕府は北条氏による執権政治へと移行してゆく。

この時代の世界

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参考書籍

表紙 北条氏の時代
著者 本郷 和人
出版社 文藝春秋
サイズ 新書
発売日 2021年11月18日頃
価格 990円(税込)
ISBN 9784166613373
鎌倉幕府百五十年の歴史をつくった謎の一族、北条氏。名もなき一介の武士の一族が、なぜ政権を奪取し日本を動かし続け、最後は族滅したのか。時政、義時、泰時…、歴代の北条家当主のリーダーシップから読み解く鎌倉通史の決定版。
 
表紙 いつのまにか変わってる地理・歴史の教科書
著者 加藤ジェームズ
出版社 マイナビ出版
サイズ 単行本
発売日 2008年08月
価格 1,430円(税込)
ISBN 9784839928704
 
表紙 最驚!ガッツ伝説
著者 Flash Exciting編集部/ガッツ石松
出版社 光文社
サイズ 単行本
発売日 2004年07月
価格 1,047円(税込)
ISBN 9784334974565
笑撃エピソード完全収録。ガッツ本人の解説付き。
 

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号)は、鎌倉武士の守護神で、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定されている。
(この項おわり)
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