西暦1281年 - 弘安の役

二度目の元寇
元寇
弘安 4 年(1281 年)6 月 6 日、モンゴル帝国軍が再び九州博多湾を攻撃する。二度目の元寇 (げんこう) 弘安の役 (こうあんのえき) である。
鎌倉幕府は、文永の役 (ぶんえいのえき) の際の教訓から、大宰府に防塁を築き、モンゴル軍の上陸を防ぐとともに、情報収集を行った。
弘安 3 年(1280 年)、鎌倉幕府第8 代執権・北条時宗 (ほうじょうときむね) は、中国人僧侶の人脈を通じ、モンゴル軍が翌年 4 月頃に襲来するという情報を入手する。

一方、モンゴル帝国の皇帝フビライは、1279 年、長年攻略を続けていた南宋を滅ぼしており、南宋と属国の高麗王国 (こうらいおうこく) に大船団を建造させ、日本攻略の動員を命じた。
今回は、朝鮮半島から出撃する 4 万の東路軍と、中国南部から出撃する 10 万の江南軍の二手に分かれて日本を攻撃することになった。

弘安 4 年(1281 年)5 月 3 日、まず東路軍が出撃。合流地点の壱岐で江南軍を待ったが、なかなか到着しなかったため、6 月 6 日、単独で博多湾の攻撃を開始した。
しかし、あらたに築かれた防塁に阻まれ上陸できずにいるうちに、日本軍の攻撃が襲いかかった。
東路軍は大損害を出し沖合に撤退し、江南軍を待った。7 月上旬、ようやく江南軍が到着した。
まさにその時、7 月 30 日夜、両軍は暴風雨に襲われ、壊滅状態に陥る。一説によると、モンゴル軍の船は粗製濫造だったために、簡単に壊れてしまったという。

モンゴル軍との戦いの後、北条時宗は円覚寺 (えんかくじ) を建立した。時宗は、日本人、モンゴル人を問わずに、戦死した人々の供養を願った。
しかし、二度にわたる元寇は侵略戦争ではなかったため、鎌倉幕府は防衛にあたった武士たちに十分な恩賞を与えることができなかった。このため、幕府の統治能力は次第に衰えていくきっかけとなった。

1271 年、モンゴル帝国に入ったイタリア人のマルコ・ポーロは、この頃、大都に滞在していたと考えられている。彼は 1292 年にイタリアに帰国し、「東方見聞録」を著す。
フビライは三度目の日本侵攻を計画していたが、東南アジアの征服に失敗し、失意のうちに 1294 年に没する。
1175 1200 1225 1250 1275 1300 1325 1350 1274 文永の役 1281 弘安の役 1251 1284 北条時宗 1222 1282 日蓮 1239 1289 一遍 1271 元の建国 1215 1294 フビライ 1254 1324 マルコ・ポーロ 1206 モンゴル帝国の成立 1241 ワールシュタットの戦い 1239 1299 ラームカムヘーン 1279 ラームカムヘーンが即位 1250 マンスーラの戦い 1223 1277 バイバルス 1214 1270 ルイ9世 1225 1274 トマス・アキナス 1214 1294 ロジャー・ベーコン Tooltip

参考書籍

表紙 蒙古襲来 歴史を変えた日本の戦い
著者 加来耕三/水谷俊樹
出版社 ポプラ社
サイズ 全集・双書
発売日 2009年11月
価格 1,080円(税込)
rakuten
ISBN 9784591110942
史上最大の帝国“元”から二度の侵略。未曾有の危機に、立ち向かう男達。
 
表紙 蒙古襲来 海から見た歴史
著者 白石一郎
出版社 講談社
サイズ 文庫
発売日 2003年12月
価格 637円(税込)
rakuten
ISBN 9784062739146
元の大軍勢はなぜ敗れ去ったのか?海洋歴史小説の第一人者にして戦いの舞台・福岡在住の著者が、クビライの海洋帝国構想、玄界灘の北西季節風の影響、軍船の構造と建造日程など、海からの視点と大胆な推論で「蒙古襲来」の真相を解明する。十三世紀の「日本」と「世界」の激突を、臨場感豊かに描く歴史読物。
 

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