
シーボルト
1829年(文政12年)、ドイツ人医師シーボルトは、幕府が外国に対して秘密にしていた日本地図を入手したことから国外追放になるというシーボルト事件が起きる。
1823年(文政6年)7月5日、長崎・出島にあるオランダ商館にシーボルトがやって来る。
日本人を治療したことで医師としての腕が認められたシーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開き、病人の診療を続ける傍ら、日本人に西洋医学や科学を教えた。長崎を出ることを許されていないシーボルトは、塾生を利用して日本の調査を行った。
1826年(文政9年)3月3日、シーボルトは、将軍に謁見するオランダ商館長に同行して江戸に入った。シーボルトは江戸で、幕府の天文方の高橋景保に出会う。
景保は、全国測量を行った伊能忠敬の跡を継ぎ、1821年(文政4年)7月10日に「大日本沿海輿地全図」を完成させていた。シーボルトは景保に頼んでロシア地図と交換に、この日本全図を入手した。

当時、蝦夷地の地勢については外国にも知られておらず、幕府は諸外国に対し、この地図を秘密にしていた。シーボルトは蝦夷地に関する情報も手に入れようと、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見していた間宮林蔵に手紙を出した。林蔵はこの手紙の封も切らずに幕府に提出したことから、シーボルトと景保の関係が明らかにされ、二人は監視されるようになる。
そんな中、シーボルトは日本女性タキと結ばれ、1827年(文政10年)5月にイネという女の子をもうけている。

10月10日に景保は逮捕され、シーボルトに日本地図を渡したことが明るみに出た。タキは、シーボルトが日本で集めた資料が見つからないように隠した。1827年(文政10年)1月、タキも厳しい取り締まりを受けたが、なにも喋らなかったという。
しかしシーボルトは国外追放となり、1829年(文政12年)12月5日、タキとイネを残して日本を去った。

1830年(文政13年)7月7日、オランダに戻ったシーボルトは、日本で集めた2万点あまりの資料を基に、日本研究の本の執筆を開始する。シーボルトのもとには、妻タキや鳴滝塾の弟子たちから日本に関する資料が送られ続けた。
2年後、ついに日本研究の本「Nippon」が出版される。

「Nippon」を読んだアメリカ人提督のペリーは、日本遠征にあたってシーボルトの助言を求めている。
日本人の気質を熟知していたシーボルトは、ペリー艦隊と幕府の衝突を避けるため、忍耐強く交渉を行うように忠告している。
1853年(嘉永6年)6月3日、ペリーが浦賀に来航し、日本は開国することになる。

1859年(安政5年)、シーボルトは追放を解かれ、30年ぶりに日本を訪れた。そこで妻タキと娘イネに再開を果たしている。
日本人を治療したことで医師としての腕が認められたシーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開き、病人の診療を続ける傍ら、日本人に西洋医学や科学を教えた。長崎を出ることを許されていないシーボルトは、塾生を利用して日本の調査を行った。
1826年(文政9年)3月3日、シーボルトは、将軍に謁見するオランダ商館長に同行して江戸に入った。シーボルトは江戸で、幕府の天文方の高橋景保に出会う。
景保は、全国測量を行った伊能忠敬の跡を継ぎ、1821年(文政4年)7月10日に「大日本沿海輿地全図」を完成させていた。シーボルトは景保に頼んでロシア地図と交換に、この日本全図を入手した。

当時、蝦夷地の地勢については外国にも知られておらず、幕府は諸外国に対し、この地図を秘密にしていた。シーボルトは蝦夷地に関する情報も手に入れようと、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見していた間宮林蔵に手紙を出した。林蔵はこの手紙の封も切らずに幕府に提出したことから、シーボルトと景保の関係が明らかにされ、二人は監視されるようになる。
そんな中、シーボルトは日本女性タキと結ばれ、1827年(文政10年)5月にイネという女の子をもうけている。

10月10日に景保は逮捕され、シーボルトに日本地図を渡したことが明るみに出た。タキは、シーボルトが日本で集めた資料が見つからないように隠した。1827年(文政10年)1月、タキも厳しい取り締まりを受けたが、なにも喋らなかったという。
しかしシーボルトは国外追放となり、1829年(文政12年)12月5日、タキとイネを残して日本を去った。

1830年(文政13年)7月7日、オランダに戻ったシーボルトは、日本で集めた2万点あまりの資料を基に、日本研究の本の執筆を開始する。シーボルトのもとには、妻タキや鳴滝塾の弟子たちから日本に関する資料が送られ続けた。
2年後、ついに日本研究の本「Nippon」が出版される。

「Nippon」を読んだアメリカ人提督のペリーは、日本遠征にあたってシーボルトの助言を求めている。
日本人の気質を熟知していたシーボルトは、ペリー艦隊と幕府の衝突を避けるため、忍耐強く交渉を行うように忠告している。
1853年(嘉永6年)6月3日、ペリーが浦賀に来航し、日本は開国することになる。

1859年(安政5年)、シーボルトは追放を解かれ、30年ぶりに日本を訪れた。そこで妻タキと娘イネに再開を果たしている。
参考サイト
- 出島:ぱふぅ家のホームページ
- シーボルトの湯はアニメ「ゾンビランドサガ」の聖地:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
参考書籍
![]() |
発覚、シーボルト事件 新しい学問をめざした人たち | ||
著者 | 小西聖一/高田勲 | ||
出版社 | 理論社 | ||
サイズ | 全集・双書 | ||
発売日 | 2006年03月 | ||
価格 | 1,320円(税込) | ||
ISBN | 9784652016350 | ||
明治維新をさかのぼること四十年、文政十一年八月十七日の深夜、猛烈な台風が長崎地方をおそった。その荒れくるう港の中で、一隻のオランダ船が座礁した。オランダ商館の医師シーボルトは、その船で、明日にでも母国に向けて出航するはずだった。事件の発端は、その積み荷の中から、強固な鎖国政策をとる幕府が持ち出しを禁止している、いわゆる禁制品が、数多く見つかったことからだ!なかで、もっとも問題とされたのは、日本地図だった。伊能忠敬や間宮林蔵たちが苦労の末に完成させた、最新の全図だ。たちまち、幕府のきびしい追及が始まった。地図を渡した容疑で、高橋景保がとらえられて獄死。事件に関わったとされる五十人あまりが刑に処せられた。ついに、シーボルトもとらえられて国外に追放!わが国の近代化への夜明けを前にして起こった、日本の学問の発展を渇望した人たちの苦悩を考える。 | |||
(この項おわり)