
大日本沿海輿地全図

伊能忠敬
最初の婿が亡くなったため、次の婿捜しをしていたところ、土地改良工事の現場監督として活躍していた三治郎に白羽の矢が立てられた。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。
1762年(宝暦12年)12月、忠敬とミチは結婚し、正式に伊能家を継いだ。

50歳で隠居してから本格的に学問を始め、江戸で幕府天文方暦局の高橋至時に師事した。
忠敬は、地球の緯度1度に相当する距離を計算することが目標であった。そこで、幕府の許可を得て、1800年(寛政12年)4月19日に第一次測量の旅に出ることになる。ロシアの南下に備えて海岸線防備を強化する必要があった蝦夷地の測量を兼ねての旅であった。

1803年(享和3年)10月、測量を終えて江戸に戻った忠敬は、さっそく緯度1度の距離を計算した。その結果は113キロ。地球1周は約4万キロということになり、現在の値にほぼ近い精密なものであった。
1762年(宝暦12年)12月、忠敬とミチは結婚し、正式に伊能家を継いだ。

50歳で隠居してから本格的に学問を始め、江戸で幕府天文方暦局の高橋至時に師事した。
忠敬は、地球の緯度1度に相当する距離を計算することが目標であった。そこで、幕府の許可を得て、1800年(寛政12年)4月19日に第一次測量の旅に出ることになる。ロシアの南下に備えて海岸線防備を強化する必要があった蝦夷地の測量を兼ねての旅であった。

1803年(享和3年)10月、測量を終えて江戸に戻った忠敬は、さっそく緯度1度の距離を計算した。その結果は113キロ。地球1周は約4万キロということになり、現在の値にほぼ近い精密なものであった。

象限儀
以後、伊能忠敬らは1816年(文化13年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。

伊能忠敬はその後も日本全国を測量したが、1818年(文化15年)4月13日に死去する。だが、忠敬の死は伏せられ、高橋至時の子である高橋景保が中心になり日本全国図の作成作業は続けられる。
また、宗谷周辺については、忠敬の弟子である間宮林蔵の測量結果を反映した。

伊能忠敬はその後も日本全国を測量したが、1818年(文化15年)4月13日に死去する。だが、忠敬の死は伏せられ、高橋至時の子である高橋景保が中心になり日本全国図の作成作業は続けられる。
また、宗谷周辺については、忠敬の弟子である間宮林蔵の測量結果を反映した。

そして、1821年(文政4年)7月10日、ついに「大日本沿海輿地全図」が幕府若年寄に提出された。この功績により、忠敬には帯刀が許され、武士並の地位が与えられた。忠敬の死が公表されたのは、それから約2ヶ月後のことであった。
「大日本沿海輿地全図」は、明治時代になっても使われ続けた。
「大日本沿海輿地全図」は、明治時代になっても使われ続けた。
2014年(平成26年)8月、伊能忠敬研究会は、伊能忠敬が作製した日本地図のうち、北海道は全域が間宮林蔵の測量に基づくとする分析結果を発表した。
伊能が1800年(寛政12年)に北海道南岸を測量してつくった地図の電子データと大日本沿海輿地全図の画像を比べたところ、南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていたことが分かり、同じ測量データを使ったとは考えにくいとして間宮の寄与が浮かび上がったもの。

間宮林蔵は、伊能忠敬が北海道南岸を測量した際に弟子入りし、樺太探検を終えてから江戸の伊能宅を頻繁に訪れるなど親しい関係が続いていた。
伊能が1800年(寛政12年)に北海道南岸を測量してつくった地図の電子データと大日本沿海輿地全図の画像を比べたところ、南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていたことが分かり、同じ測量データを使ったとは考えにくいとして間宮の寄与が浮かび上がったもの。

間宮林蔵は、伊能忠敬が北海道南岸を測量した際に弟子入りし、樺太探検を終えてから江戸の伊能宅を頻繁に訪れるなど親しい関係が続いていた。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
伊能忠敬は、1745年(延享2年)1月、現在の九十九里町の盟主の家に生まれた。幼名は三治郎。佐原(現在の千葉県香取市佐原)を治めていた国分氏の家臣だった伊能家は酒造を商うようになっていたが、1742年(寛保2年)、跡取りに恵まれずに当主の長由が他界した。