青葉城趾(仙台城趾)には仙台420年の歴史が凝縮されている

2024年9月6日 撮影
仙台市街を望む - 青葉城趾(仙台城趾)
仙台市街を望む
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伊達政宗公騎馬像 - 青葉城趾(仙台城趾)
伊達政宗公騎馬像
仙台城趾 (せんだいじょうあと) 青葉城趾 (あおばじょうし) ;宮城県仙台市青葉区川内1)は、関ヶ原の戦いの後、伊達政宗徳川家康の許可を得て居城を移し、標高約130メートルの青葉山の頂上、東と南を断崖が固める天然の要害に城を築いた。家康の警戒を避けるために天守閣は設けなかったと言われる。

本丸跡には、高さ4.2メートル、重さ4.9トンの巨大な伊達政宗公騎馬像が建っている。初代の騎馬像は1935年(昭和10年)に政宗の三百回忌を記念し、宮城県槻木村(現・柴田町)出身の小室達 (こむろ とおる) が製作した。しかし、1944年(昭和19年)に政府の金属類回収令により撤去・溶解されてしまう。
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伊達政宗公騎馬像 - 青葉城趾(仙台城趾)
伊達政宗公騎馬像
1953年(昭和28年)に小室達は他界するが、同じ頃、騎馬像がない台座に白いセメント製の伊達政宗立像が建立された。
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伊達政宗公騎馬像 - 青葉城趾(仙台城趾)
伊達政宗公騎馬像
その後、小室達の未亡人が寄贈した石膏原型が柴田町にあることがわかり、1964年(昭和39年)に仙台市がその原型を借りて、初代と同じ伊藤鋳造所に依頼し鋳造した。その経緯が台座に刻まれている。

東日本大震災では無傷だったものの、2022年(令和4年)3月の福島沖地震では馬の左前脚と右後ろ脚の足首に亀裂が入って傾き、約9か月の修復期間を経て、2023年(令和5年)3月に帰還した。
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伊達政宗公騎馬像 - 青葉城趾(仙台城趾)
伊達政宗公騎馬像
台座の周囲には、政宗の生涯を表した4枚のレリーフが嵌め込まれている。これも戦時中の金属類回収令で外されてしまったのだが、1964年(昭和39年)に復活した。

写真のレリーフは、政宗が朝鮮の役に出陣する様子を表している。
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仙台大観音 - 青葉城趾(仙台城趾)
仙台大観音
伊達政宗公騎馬像のあたりからは、冒頭写真にあるように仙台市街が一望できる。
日本で2番目に大きいとされる高さ100メートルの仙台大観音(宮城県仙台市泉区実沢中山南31-36)を見ることはできた。
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昭忠碑 - 青葉城趾(仙台城趾)
昭忠碑
伊達政宗公騎馬像と並び立つ昭忠碑は、1874年(明治7年)の佐賀の乱以降、西南戦争日清戦争などに従軍した陸軍第2師団所属の戦没者に対する慰霊顕彰碑として1902年(明治35年)11月に建立された。

東日本大震災で、高さ約15メートルの石塔上部に設置されたブロンズ製の (とび) (高さ4.44メートル、幅5.68メートル、重さ3.8トン)が落下・破損してしまった。このブロンズ像は東京美術学校(現・東京藝術大学)が制作したもので、仏像を除くブロンズ彫刻としては東北地方で最も古い時期に設置された貴重な作品であることから、破片を回収・修復し、鵄本体は基壇上に移設することになり、2016年(平成28年)10月に工事が行われた。
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土井晩翠胸像 - 青葉城趾(仙台城趾)
土井晩翠胸像
土井晩翠 (どい ばんすい) (1871~1952)は、仙台市北鍛冶町で生まれ、1897年(明治30年)に東京帝国大学英文科を卒業し、1900年(明治33年)に母校・旧制第二高等学校の教授として仙台に戻ってきた。1901年(明治34年)に不朽の名作「荒城の月」(歌詞)を発表。1952年(昭和27年)に他界したとき、胸像とともに「荒城の月」の歌碑が建立された。
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青葉山公園 - 青葉城趾(仙台城趾)
青葉山公園
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青葉山公園 - 青葉城趾(仙台城趾)
青葉山公園
青葉山公園は、杜の都 (もりのみやこ) の名に違わず、樹木に囲まれている。

伊達政宗は、飢饉に備え、家臣たちに屋敷内に栗・梅・柿などの実のなる木や竹を、また隣との境に杉を植えるように奨めた。こうしてできた屋敷林 (やしきりん) と、寺社の樹木、そして広瀬川の河畔や青葉山の緑が一体となり、仙台の街全体が緑に包まれるようになった。
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青葉山公園 - 青葉城趾(仙台城趾)
青葉山公園
青葉城趾一帯の土地権利関係は少々複雑で、仙台市の所有地が青葉山公園ということになっているが、これは頂上のごく一部で、国立大学法人東北大学と宮城県護国神社が所有している区画が多い。
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本丸跡 - 青葉城趾(仙台城趾)
本丸跡
1871年(明治4年)に東北鎮台が仙台城に駐屯した際に本丸が破壊され、石材と木材が兵舎建設に流用された。東北鎮台は仙台鎮台と改称し、1888年(明治21年)に第二師団になった。
1904年(明治37年)に、本丸跡に招魂社が建立された。現在の宮城縣護國神社である。
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本丸跡 - 青葉城趾(仙台城趾)
本丸跡
1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲により、多くの建造物が焼失した。戦後、二の丸跡地に米軍が駐留し(キャンプセンダイ)、唯一残っていた三の丸の巽門 (たつみもん) を撤去してしまう。1957年(昭和32年)にキャンプセンダイが変換され、東北大学川内キャンパスとなった。
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 - 青葉城趾(仙台城趾)
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石垣 - 青葉城趾(仙台城趾)
石垣
本丸跡の周囲には復元した石垣が展示されている。こちらは築城期のもの。自然石や粗割りした築石 (ちくいし) を石材の長軸を横向きにして積み、その隙間に詰石 (つめいし) を詰め、崩れないようにした。
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石垣 - 青葉城趾(仙台城趾)
石垣
復元した本丸北壁の石垣――17世紀後半から18世紀初頭に築かれたものとされる。
石材を直方体に切り出した角石 (すみいし) が、その角部を支えて変形を防止する角脇石 (すみわきいし) で囲まれている。
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宮城縣護國神社
宮城縣護國神社
青葉山の駐車場から青葉山公園に向かうと、まず、宮城縣護國神社(宮城県仙台市青葉区川内1番地)の鳥居をくぐる。日清戦争後の1898年(明治31年)に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の1904年(明治37年)に招魂社を建立したのがはじまり。
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青葉城資料展示館・青葉城本丸会館 - 宮城縣護國神社
青葉城資料展示館・青葉城本丸会館
参道には青葉城資料展示館青葉城本丸会館がある。資料展示館には政宗直筆の書状や刀。、鎧、調度品などが展示されており、CGシアターのナレーターが、あの若本規夫 (わかもと のりお) であった。グイグイ来る🤣
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宮城縣護國神社 - 青葉城趾(仙台城趾)
宮城縣護國神社
青葉城本丸会館の隣に正面大鳥居があり、拝殿・本殿が見える。1939年(昭和14年)の内務省令により内務大臣指定護国神社となり、宮城縣護國神社に改称。
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宮城縣護國神社 - 青葉城趾(仙台城趾)
宮城縣護國神社
1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で焼失するが、1958年(昭和33年)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築して復興した。

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宮城縣護國神社 - 青葉城趾(仙台城趾)
宮城縣護國神社
1963年(昭和38年)5月18日、昭和天皇・香淳皇后両陛下が第14回全国植樹祭に合わせて県内を行幸し、護國神社を訪れた。
なお、護國神社の名前が示す通り、政府側の神社であり、戊辰戦争に敗れて賊軍となった仙台藩関係者は祀られていない。
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鎮魂の泉 - 宮城縣護國神社
鎮魂の泉
鎮魂の泉は、戦地で一滴の水も飲めず散華された御祭神に、青葉城本丸下の地中より汲み上げた水を捧げ御霊が永久に鎮められるよう、1995年(平成7年)に建立した。石組みは宮城の山河をモチーフにし、御祭神ゆかりの戦跡の石や珊瑚礁などを用いている。
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浦安宮 - 宮城縣護國神社
浦安宮
別宮の浦安宮には2つの社がある。向かって右の左宮に、天照大神、豊受姫神級長津彦命 (しなつひこのみこと) 級長戸辺命 (しなとべのみこと) が、向かって左の右宮には、仙台藩藩祖の伊達政宗、当地に古くから鎮座する白水稲荷大神が祀られている。
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浦安宮 - 宮城縣護國神社
浦安宮
前述の通り、宮城縣護國神社は政府側の神社であるが、伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を利用させていただいた関係で、皇祖とともに、仙台藩藩祖を祀ることになったようだ。1967年(昭和42年)10月22日に建立された。
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交通アクセス

【鉄道】
  • 地下鉄東西線「国際センター駅」下車、徒歩約20分
【バス】
  • JR仙台駅西口バスプール16番乗り場より、観光シティループバス「るーぷる仙台」で約20分、「博物館・国際センター前」下車
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出発地の最寄駅:

目的地:仙台城跡(青葉城址)
仙台城跡 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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