
ダマスカスのウマイヤド・モスク
ダマスカス付近の地図
その後、カリフの地位をめぐり、ウマイヤ家のカリフを認めるスンナ派と、第4代カリフ・アリーの子孫をカリフと見なすシーア派の対立がはじまり、帝国は分裂の時代を迎える。

680年、ムアーウィアが他界し、子どものヤズィード1世がカリフを世襲すると、アリーの後継者フサインがシーア派に支援されて反乱を起こした。しかし、バグダード近郊のカルバラーの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ、フサインは従者と共に殺害された。
これは「カルバラーの殉教」といわれ、カルバラーはシーア派の聖地とされ、その殉教の日(イスラーム暦のムハッラム月10日)を殉教者フサインを追悼するアーシュラーの祭りを挙行している。

ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派としてイラクなどに存続することとなる。
そして、750年(天平勝宝2年)、預言者ムハンマドの叔父アッバースの血を引くアッバース家が、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破り、アッバース朝を創始した。

第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世はモロッコに逃れ、756年(天平勝宝8年)、イベリア半島で後ウマイヤ朝を建国する。
後ウマイヤ朝は、1031年(長元4年)にカリフ・ヒシャーム3世が死亡すると、大臣たちによってカリフの廃位が決定され、滅亡する。

680年、ムアーウィアが他界し、子どものヤズィード1世がカリフを世襲すると、アリーの後継者フサインがシーア派に支援されて反乱を起こした。しかし、バグダード近郊のカルバラーの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ、フサインは従者と共に殺害された。
これは「カルバラーの殉教」といわれ、カルバラーはシーア派の聖地とされ、その殉教の日(イスラーム暦のムハッラム月10日)を殉教者フサインを追悼するアーシュラーの祭りを挙行している。

ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派としてイラクなどに存続することとなる。
そして、750年(天平勝宝2年)、預言者ムハンマドの叔父アッバースの血を引くアッバース家が、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破り、アッバース朝を創始した。

第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世はモロッコに逃れ、756年(天平勝宝8年)、イベリア半島で後ウマイヤ朝を建国する。
後ウマイヤ朝は、1031年(長元4年)にカリフ・ヒシャーム3世が死亡すると、大臣たちによってカリフの廃位が決定され、滅亡する。
この時代の世界
(この項おわり)
ウマイヤ朝の支配層はアラブ人が占めていたことから、アラブ帝国と呼ぶこともある。ササン朝との抗争で疲弊していた東ローマ帝国を攻めることで、イスラーム帝国の版図が最大となった。