西暦1019年 - 刀伊の入寇

平安時代最大の対外危機
奮戦する藤原隆家
奮戦する藤原隆家
1019年(寛仁3年)3月から4月にかけ、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬から九州に侵攻するという刀伊の入寇 (といのにゅうこう) が起きる。刀伊の来寇ともいう。
大宰府の報告によれば、2週間の戦闘期間中に364名が殺害され、1280名が拉致されたという。藤原隆家 (ふじわらのたかいえ) らにより撃退された。
平安時代初期から中期にかけて、九州沿岸を中心に外国の海賊による襲撃を数十回受けているが、刀伊の入寇はその規模から群を抜いており、平安時代最大の対外危機とされる。
1019年(寛仁3年)3月末、高麗との国境の島・対馬に、約3,000を乗せた約50隻の海賊船が来襲した。対馬島内で略奪を繰り返し、36人が殺され、346人が拉致されたと記録されている。また、牛馬などの家畜は食料にされたという。対馬守遠晴 (つしまのかみとおはる) は辛くも脱出し、太宰府へ刀伊を報告した。
その後、刀伊は壱岐を襲い、壱岐守・藤原理忠 (ふじわらのまさただ) が戦うが全く刃が立たず、148人が殺され、239人が拉致された。理忠自身も戦死し、難を逃れた島民はわずか35人だった。

知らせを聞いた大宰権帥 (だざいふごんのそち) 藤原隆家は前例のない事態として朝廷に報告をあげるが、事態は急を要しており、地元の豪族を集め、応戦体制を固めた。
996年(長徳2年)に、藤原隆家は、同母兄の藤原伊周 (ふじわらのこれちか) とともに、花山法皇の一行を襲撃するという事件を起こし、これを藤原道長に利用され、出雲権守に左遷させられた。998年(長徳4年)に大赦を受けて帰京し、官界に復帰。1009年(寛弘6年)に中納言になった。1010年(寛弘7年)には伊周が没したため、中関白家 (なかのかんぱくけ) の声望を集めることになるが、1012年(寛弘9年)に眼病を患い宮中への出仕が困難になった。太宰府に眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞き、大宰権帥への任官を望むが、中関白家が九州勢力と結ぶことを恐れた道長によって妨害される。1014年(長和2年)11月に、ようやく大宰権帥として現地へ赴任し、善政を敷いた。

隆家らは、博多湾に面した外交施設「鴻臚館 (こうろかん) 」に近い警固所に押し寄せてきた刀伊を撃退した。
ところが、朝廷が恩賞を約束した勅符 (ちょくふ) を発行したのは4月18日で、この時には戦闘が終わっていた。6月29日に陣定 (じんのさだめ) pが行われ、道長派は、勅符が出されたのは戦闘が終わったあとであるから恩賞不要と発言したが、これに対し、大納言・藤原実資 (ふじわらのさねすけ) は異を唱え、「もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と反論した。

恩賞は出たことには出たのだが、戦場で活躍した大蔵種材 (おおくらのたねき) が壱岐守になったくらいの小さなものだった。種材とともに活躍した平致行 (たいらのむねゆき) は、986年(寛和2年)に斎宮・済子女王と密通事件を起こした平致光 (たいらのむねみつ) と同一人物と考えられている。
つまり、この時代、集団で移動しながら地方で力を付けていた武装集団が複数存在しており、荘園貴族や寺社と気脈を通じながら力を付けていったと考えられている。道長はそうした武装勢力の弱体化をはかってきたが、地方の経済力が増すにつれ、相対的に中央貴族の権力が低下していくことになる。

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