
後醍醐天皇
1336年(建武3年/延元元年)11月2日、湊川の戦いで足利軍の敗北した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲らざるを得なくなり、ここに建武の新政は終わりを告げる。吉野へ逃れた後醍醐は、自らの正統性を主張し、南北朝時代に入る。
室町幕府と南北朝のはじまり

足利尊氏
鎌倉幕府が滅亡し、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、天皇自らが政治を行う建武の新政をはじめた後醍醐天皇であったが、領主や武士団の不満を解消するには至らなかった。
中先代の乱に勝利し鎌倉から戻らない足利尊氏に対し、1335年(建武2年)11月、後醍醐天皇は討伐軍の派遣を決めた。
新田義貞や楠木正成が討伐に加わるが、尊氏軍は善戦し、1336年(建武3年)1月、逆に京都に攻め入る。ところが、津軽を平定した北畠顕家の軍勢が朝廷軍に加わり、1日平均40kmという史上最速の行軍で鎌倉を占領し、さらに東海道を西へ向かい、正成や義貞と合流すると形勢は一気に逆転し、足利軍は九州へ敗走した。
尊氏は九州で兵を立て直し、後醍醐と対立する持明院統の光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を取り付け、再び京都へ向けて進軍する。
中先代の乱に勝利し鎌倉から戻らない足利尊氏に対し、1335年(建武2年)11月、後醍醐天皇は討伐軍の派遣を決めた。
新田義貞や楠木正成が討伐に加わるが、尊氏軍は善戦し、1336年(建武3年)1月、逆に京都に攻め入る。ところが、津軽を平定した北畠顕家の軍勢が朝廷軍に加わり、1日平均40kmという史上最速の行軍で鎌倉を占領し、さらに東海道を西へ向かい、正成や義貞と合流すると形勢は一気に逆転し、足利軍は九州へ敗走した。
尊氏は九州で兵を立て直し、後醍醐と対立する持明院統の光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を取り付け、再び京都へ向けて進軍する。

光明天皇
1336年(建武3年/延元元年)5月25日、兵庫・湊川で足利軍と朝廷軍が衝突し、湊川の戦いが起きる。この戦いは足利軍の圧倒的な勝利で幕を閉じる。
尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11月7日には建武式目を定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を南北朝時代と呼ぶ。
尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11月7日には建武式目を定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を南北朝時代と呼ぶ。
北畠顕家と北条時行

北畠顕家
この時代の世界
(この項おわり)