
後醍醐天皇
1336年(建武3年/延元元年)11月2日、湊川の戦いで足利軍の敗北した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲らざるを得なくなり、ここに建武の新政は終わりを告げる。吉野へ逃れた後醍醐は、自らの正統性を主張し、南北朝時代に入る。
室町幕府と南北朝のはじまり

足利尊氏

光明天皇
1336年(建武3年/延元元年)5月25日、兵庫・湊川で足利軍と朝廷軍が衝突し、湊川の戦いが起きる。この戦いは足利軍の圧倒的な勝利で幕を閉じる。
尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11月7日には建武式目を定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を南北朝時代と呼ぶ。
尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11月7日には建武式目を定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を南北朝時代と呼ぶ。
北畠顕家と北条時行

北畠顕家
この時代の世界
(この項おわり)