
元の初代皇帝・フビライ(クビライ)の時代にモンゴル帝国を訪れた商人マルコ・ポーロは、イタリアに帰郷した後の1298年(永仁6年)。旅や元のことを記した「東方見聞録」を発行する。
1271年(文永8年)、17歳のイタリア人青年マルコ・ポーロは、モンゴル帝国の首都への旅に出発する。ペルシアから中央アジアを経てモンゴル帝国の東へ向かう陸路の旅だった。

1275年(文永12年)、モンゴル帝国の首都・大都に到着。マルコは、その繁栄ぶりに驚いた。
皇帝フビライとの謁見を果たしたマルコは、西欧や旅に関する知識を買われ、皇帝の側近として使えることになる。
1279年(弘安2年)、モンゴル帝国は南宋を滅ぼす。その後、文永の役、弘安の役で二度も日本を攻めるが、いずれも失敗。

1291年(正応4年)、フビライの元を辞したマルコは、帰郷の旅に出る。
1294年(永仁2年)1月、フビライが死去。
1295年(永仁3年)、マルコはヴェネツィアに帰還する。
1298年(永仁6年)、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦いに賛成し、ジェノヴァの捕虜になる。捕囚中に語った旅の様子は、その年の暮れ、「東方見聞録」として出版された。

1275年(文永12年)、モンゴル帝国の首都・大都に到着。マルコは、その繁栄ぶりに驚いた。
皇帝フビライとの謁見を果たしたマルコは、西欧や旅に関する知識を買われ、皇帝の側近として使えることになる。
1279年(弘安2年)、モンゴル帝国は南宋を滅ぼす。その後、文永の役、弘安の役で二度も日本を攻めるが、いずれも失敗。

1291年(正応4年)、フビライの元を辞したマルコは、帰郷の旅に出る。
1294年(永仁2年)1月、フビライが死去。
1295年(永仁3年)、マルコはヴェネツィアに帰還する。
1298年(永仁6年)、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦いに賛成し、ジェノヴァの捕虜になる。捕囚中に語った旅の様子は、その年の暮れ、「東方見聞録」として出版された。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
完訳東方見聞録(1) | ||
著者 | マルコ・ポーロ/愛宕松男 | ||
出版社 | 平凡社 | ||
サイズ | 全集・双書 | ||
発売日 | 2000年02月 | ||
価格 | 1,980円(税込) | ||
ISBN | 9784582763263 | ||
十三世紀、全アジアを支配下におくフビライ・カーンの寵愛を受けて、マルコ・ポーロは二十歳そこそこから十七年間、使者として元朝諸方へ派遣され、各地を踏査する。未曾有の繁栄を誇るシルクロードを採った往路の様子から、現在のミャンマーあたりにまで至る雲南への使節行、さらには元朝の宮廷事情にまで及ぶ見聞記。 | |||
![]() |
完訳東方見聞録(2) | ||
著者 | マルコ・ポーロ/愛宕松男 | ||
出版社 | 平凡社 | ||
サイズ | 全集・双書 | ||
発売日 | 2000年02月 | ||
価格 | 1,980円(税込) | ||
ISBN | 9784582763270 | ||
現在の天津郊外より台湾海峡に至る長大な運河に沿っての福建への旅、チパング島への遠征(元寇)、さらには極寒のロシアなど、広大な地域にわたって産業や宗教、習慣、迷信などを見聞してゆくマルコ・ポーロ。インド洋を経由するスパイスコースで帰路に着き、ヴェニスを発って二十六年という長い旅の終わりをむかえる。 | |||
![]() |
フビライ汗 | ||
著者 | 勝藤猛 | ||
出版社 | 中央公論新社 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2000年02月25日頃 | ||
価格 | 712円(税込) | ||
ISBN | 9784122035980 | ||
南宋を滅ぼし、高麗・安南・ビルマ・ジャワを降し、1274年(文永11)の文永の役、1281年(弘安4)の弘安の役と、二度にわたり「蒙古襲来」を企てたフビライ汗。大元帝国皇帝として「能く夏(中国的なもの)をもって夷(モンゴル的なもの)を変えた」男の覇業を祖父チンギス汗から説きおこして描く。 | |||
(この項おわり)