
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた。敷地だけでも御所の2倍にも及んだといわれている。

室町通に面して正門が設けられたことから、室町殿、室町第とも呼ばれた。これにちなんで、足利将軍のことを「室町殿」、足利幕府のことを室町幕府と称する。

1394年(明徳3年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(金閣)へ移り住む。。
花の御所は、8代将軍の足利義政の頃に応仁の乱の戦火で焼失してしまう。その後も何度か再建が繰り返されたが、13代将軍の足利義輝が1559年(永禄2年)に二条御所を造営・移転したために廃止された。

室町通に面して正門が設けられたことから、室町殿、室町第とも呼ばれた。これにちなんで、足利将軍のことを「室町殿」、足利幕府のことを室町幕府と称する。

1394年(明徳3年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(金閣)へ移り住む。。
花の御所は、8代将軍の足利義政の頃に応仁の乱の戦火で焼失してしまう。その後も何度か再建が繰り返されたが、13代将軍の足利義輝が1559年(永禄2年)に二条御所を造営・移転したために廃止された。
室町幕府の体制

足利義満の時代に室町幕府の体制が整った。反後醍醐を旗印に武士を集めたことから、武士を重視した体制を敷いた。

まず、足利家の執事を管領と呼び、将軍に次ぐ地位を与えた。管領は、細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏から交代で任命された。
管領は、中央(京都)において、警備・裁判を担当する侍所、財政を担当する政所、記録担当の問注所、幕府の最高政務機関である評定衆を管轄した。また、奉公衆と呼ばれる直轄軍を編成した。

地方では、東国武士を管轄する鎌倉府(鎌倉公方)と、それを補佐する関東管領が置かれた。初代鎌倉公方には足利尊氏の四男・基氏が就任し、以後、世襲となった。また、関東管領は上杉氏が世襲していく。

まず、足利家の執事を管領と呼び、将軍に次ぐ地位を与えた。管領は、細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏から交代で任命された。
管領は、中央(京都)において、警備・裁判を担当する侍所、財政を担当する政所、記録担当の問注所、幕府の最高政務機関である評定衆を管轄した。また、奉公衆と呼ばれる直轄軍を編成した。

地方では、東国武士を管轄する鎌倉府(鎌倉公方)と、それを補佐する関東管領が置かれた。初代鎌倉公方には足利尊氏の四男・基氏が就任し、以後、世襲となった。また、関東管領は上杉氏が世襲していく。
各地の守護は、軍事・警察権のみの鎌倉幕府時代に比べて権限が拡大し、領地内の年貢の半分を徴収することができた。これにより各地の守護は領主としての地位を固め、やがて守護大名として変貌してゆく。守護には、それを補佐する守護代と地頭がつく。
この時代の世界
(この項おわり)
3代将軍となった足利義満は、1378年(天授4年)、北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営をはじめた。
1381年(天授7年)に完成すると、それまでの三条坊門第から移住する。