カール4世の金印
神聖ローマ帝国では、諸侯が国王(のちに皇帝となる「ローマ王」)を選んだが、選挙権を持つ者や手続きが十分に整理されていなかった。1254年(建長6年)から1273年ごろの大空位時代には王位を争う混乱も続いた。そこで1356年(正平10年)、神聖ローマ皇帝カール4世は金印勅書(黄金勅書)を発布し、皇帝選挙と選帝侯の権利を帝国法として定めた。
7人の選帝侯と多数決
カール4世
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選挙権を持つ7人は、マインツ・トリーア・ケルンの3大司教と、ボヘミア王・ライン宮中伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯である。聖職者3人と世俗諸侯4人からなる選帝侯の顔ぶれを確定し、マインツ大司教が選挙を招集すること、フランクフルトに集まること、過半数の4票でローマ王を選ぶことなどを明文化した。全員一致を待たずに決められるため、二重選挙や選挙の長期化を抑える仕組みとなった。
金印勅書は、皇帝選挙への教皇の承認や共同決定について記さず、教皇を選挙手続きから事実上排除した。皇帝と教皇の対立そのものが終わったわけではないが、ローマ王の選出を帝国内で完結させた点は重要である。なお、全31章のうち23章は1356年(正平10年)1月にニュルンベルク、残る8章は同年12月にメッツで公布された。
選帝侯の特権と領邦国家化
選帝侯による神聖ローマ皇帝の選出
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金印勅書は選帝侯に、領内の鉱山を支配する権利、貨幣を鋳造する権利、従来からの関税を徴収する権利、領内の裁判に対する強い権限などを認めた。また、世俗選帝侯領を分割せず、原則として長男が継承することを定め、選挙権と領地が一体のまま受け継がれるようにした。
この仕組みは選挙の秩序を安定させた一方、選帝侯の領国支配を強めた。神聖ローマ帝国は、イングランドやフランスのような中央集権国家ではなく、多くの諸侯領・都市などが並び立つ分権的な帝国として発展した。宗教改革や三十年戦争では諸侯が異なる陣営に分かれ、ドイツ地域の政治的統一は1871年(明治4年)まで実現しなかった。ただし、金印勅書だけを統一の遅れの原因とみなすのではなく、その後の宗教・国際政治・経済など複数の要因も考える必要がある。
1806年まで続いた帝国の基本法
金印勅書は、単一の近代憲法ではないものの、皇帝選挙と選帝侯の地位を定めた神聖ローマ帝国の基本法として重んじられた。選帝侯の数や構成は近世に変更されたが、選挙制度の土台は、ナポレオン戦争の影響で神聖ローマ帝国が解体された1806年(文化3年)まで約450年間存続した。ヨーロッパの法制史を代表する文書の一つである。
参考サイト
- The Golden Bull:Österreichische UNESCO-Kommission
- The Golden Bull (1356):German History in Documents and Images
- Rhinegold - Rights, Money and Power:Deutsches Historisches Museum
- The Golden Bull of the Emperor Charles IV 1356 A.D.:Yale Law School
- 神聖ローマ帝国#8 金印勅書【世界史】:YouTube
この時代の世界
(この項おわり)
