
朱元璋
1280年から1340年にかけ、ウォルフ極小期と呼ばれる地球規模での寒冷化が起き、農作物の収量が落ち、農民は苦境に立たされた。
これに追い打ちをかけるようにヨーロッパでは黒死病が猛威を振るい、元帝国が整備した交易ルートにも伝染し、駅伝を維持できなくなった。

貧農出身の朱元璋は文字も読めなかったという。農民反乱による王朝は長く続かないが、明は250年間も続いた。
洪武帝は農本主義をとり、農作物の収量を回復させ、疫病対策を行い、徴税の徹底と農民の軍事利用体制を整えた。通貨を廃止し、物々交換を奨励した。万里の長城を補修し、北方からの異民族の侵入を防いだ。また、官僚を徹底的に監視することで中央集権体制を確立した。一方で、大量の処刑者も出した。
また、民間人による貿易を禁じ、国家が交易を管理する朝貢貿易(勘合貿易)を行う。周辺国に対し中華思想を示し、国力の違いを見せつけることで交易を有利に進めた。
こうして明は急速に国力を蓄えていった。

クーデターで帝位に就いた第3代皇帝・永楽帝は、世界帝国を目指して攻勢に出る。自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征する一方、イスラム教徒の宦官・鄭和は大艦隊を率いてインド洋から東アフリカへの航海を繰り返し、明への朝貢を求めた。
1421年には紫禁城を完成させ、北平(現在の北京)へ遷都した。
これに追い打ちをかけるようにヨーロッパでは黒死病が猛威を振るい、元帝国が整備した交易ルートにも伝染し、駅伝を維持できなくなった。

貧農出身の朱元璋は文字も読めなかったという。農民反乱による王朝は長く続かないが、明は250年間も続いた。
洪武帝は農本主義をとり、農作物の収量を回復させ、疫病対策を行い、徴税の徹底と農民の軍事利用体制を整えた。通貨を廃止し、物々交換を奨励した。万里の長城を補修し、北方からの異民族の侵入を防いだ。また、官僚を徹底的に監視することで中央集権体制を確立した。一方で、大量の処刑者も出した。
また、民間人による貿易を禁じ、国家が交易を管理する朝貢貿易(勘合貿易)を行う。周辺国に対し中華思想を示し、国力の違いを見せつけることで交易を有利に進めた。
こうして明は急速に国力を蓄えていった。

クーデターで帝位に就いた第3代皇帝・永楽帝は、世界帝国を目指して攻勢に出る。自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征する一方、イスラム教徒の宦官・鄭和は大艦隊を率いてインド洋から東アフリカへの航海を繰り返し、明への朝貢を求めた。
1421年には紫禁城を完成させ、北平(現在の北京)へ遷都した。
この時代の世界
(この項おわり)
1368年、紅巾軍の指導者の一人である朱元璋(のちの洪武帝)は「回復中華」のスローガンを掲げ、地主勢力と結んでモンゴル勢力を北方へ退けた。そして、金陵(現在の南京)を首都とする明を建国する。