
後醍醐天皇
正中の変

北条高時

足利高氏

楠木正成
正中の変は幕府軍の勝利に終わり、1332年(元弘2年/正慶元年)、後醍醐は隠岐へ流され、代わって持明院統の光厳天皇が即位した。
元弘の乱

新田義貞
1333年(正慶2年/元弘3年)、隠岐を脱出した後醍醐は楠木正成らと合流し、再び倒幕のために挙兵する。元弘の乱がはじまる。

3月、幕府は北条一族の名越高家と御家人の筆頭である足利高氏を京都へ派遣するが、高氏は武士たちの心が幕府を離れていることを察知すると、後醍醐側に寝返り、後醍醐から幕府討伐の許可を取り付ける。
5月、高氏は京都の六波羅探題を攻略。同じ頃、関東で挙兵した新田義貞は、わずか4日で鎌倉幕府を滅ぼし、北条高時は一族や家臣とともに自刃して果てた。

3月、幕府は北条一族の名越高家と御家人の筆頭である足利高氏を京都へ派遣するが、高氏は武士たちの心が幕府を離れていることを察知すると、後醍醐側に寝返り、後醍醐から幕府討伐の許可を取り付ける。
5月、高氏は京都の六波羅探題を攻略。同じ頃、関東で挙兵した新田義貞は、わずか4日で鎌倉幕府を滅ぼし、北条高時は一族や家臣とともに自刃して果てた。
建武の新政

護良親王
中先代の乱から南北朝時代へ
建武の新政がはじまってからも、各地で北条残党の反乱が続いていた。
建武の新政では、すでに地方に浸透していた武士の力を借りずに貴族だけで行政を回そうとした結果、行政機能がパンクし、武士や農民の不満がたまっていったのである。
鎌倉には、成良親王を将軍とし、尊氏の弟・足利直義が執権としてこれ補佐する鎌倉将軍府が設置された。
1335年(建武2年)7月、諏訪に潜伏していた北条時行が挙兵し、鎌倉を占拠。中先代の乱である。
足利直義は、尊氏の子・義詮や成良親王を連れて鎌倉を脱出。途中、護良親王を殺害する。
足利尊氏は勅許を得ないまま出陣し、鎌倉を奪回。時行の鎌倉占領はわずか20日で終わった。

尊氏は後醍醐の帰京命令を無視し、そのまま鎌倉に居座った。
尊氏は新田氏の領地を没取するなど親政の枠組みを破壊しはじめる。後醍醐は新田義貞に尊氏討伐を命じるが、12月、新田軍は敗走。
後醍醐は、奥州から西上した北畠顕家や新田義貞らが合流して、いったんは足利軍を駆逐するが、1336年(延元元年)5月、湊川の戦いで足利軍に敗れる。こうして建武の新政は2年半で瓦解した。

入京した尊氏は、光厳上皇の弟・光明天皇を即位させて北朝が成立。三種の神器を手放した後醍醐は、12月、吉野へ逃れ南朝を成立させる。こうして南北朝時代がはじまる。
建武の新政では、すでに地方に浸透していた武士の力を借りずに貴族だけで行政を回そうとした結果、行政機能がパンクし、武士や農民の不満がたまっていったのである。
鎌倉には、成良親王を将軍とし、尊氏の弟・足利直義が執権としてこれ補佐する鎌倉将軍府が設置された。
1335年(建武2年)7月、諏訪に潜伏していた北条時行が挙兵し、鎌倉を占拠。中先代の乱である。
足利直義は、尊氏の子・義詮や成良親王を連れて鎌倉を脱出。途中、護良親王を殺害する。
足利尊氏は勅許を得ないまま出陣し、鎌倉を奪回。時行の鎌倉占領はわずか20日で終わった。

尊氏は後醍醐の帰京命令を無視し、そのまま鎌倉に居座った。
尊氏は新田氏の領地を没取するなど親政の枠組みを破壊しはじめる。後醍醐は新田義貞に尊氏討伐を命じるが、12月、新田軍は敗走。
後醍醐は、奥州から西上した北畠顕家や新田義貞らが合流して、いったんは足利軍を駆逐するが、1336年(延元元年)5月、湊川の戦いで足利軍に敗れる。こうして建武の新政は2年半で瓦解した。

入京した尊氏は、光厳上皇の弟・光明天皇を即位させて北朝が成立。三種の神器を手放した後醍醐は、12月、吉野へ逃れ南朝を成立させる。こうして南北朝時代がはじまる。
- 南北朝の若君たち 北条時行と北畠顕家:NHK歴史探偵,2023年7月12日
この時代の世界
(この項おわり)
後醍醐は建武の新政を開始する。成良親王を将軍に、足利直義が執権とする鎌倉将軍府が設置されるが、各地で北条残党の反乱が続く。