
足利尊氏(高師直との説も)
鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立まで

後醍醐天皇

新田義貞

光明天皇
一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。
中先代の乱で破れた北条時行は南朝に帰順し、北畠顕家や新田義貞の子、義興と結び、京奪還に向かう。途中、鎌倉を奪還するが、1338年(延元3年)5月、大阪で顕家が討死してしまう。時行は難を逃れ、再び姿をくらました。
8月、尊氏は待望の征夷大将軍に任官されたのであった。
中先代の乱で破れた北条時行は南朝に帰順し、北畠顕家や新田義貞の子、義興と結び、京奪還に向かう。途中、鎌倉を奪還するが、1338年(延元3年)5月、大阪で顕家が討死してしまう。時行は難を逃れ、再び姿をくらました。
8月、尊氏は待望の征夷大将軍に任官されたのであった。
観応の擾乱
1348年(正平2年)頃から、尊氏の弟・足利直義と、幕府執事・高師直の間に政治闘争が起きた。
1339年(延元4年)に後醍醐天皇が没し、畿内は比較的平穏な状態となり、戦上手の師直と郎党は活躍の場を失っていた。一方、直義が法と正義に基づく幕政を推進したため、師直と衝突することは歴史的必然であった。
1349年(正平3年)8月、師直はクーデターを起こし、直義を出家に追い込んだ。しかし、1350年(正平4年)10月、直義は京都を出奔し、観応の擾乱が始まる。
直義は各地で兵を集め南朝に帰順し、尊氏・師直と対立する。1351年(正平5年)2月、師直と高一族が忙殺される。
尊氏は、直義と南朝の分断をはかるため、1351年(正平5年)10月、南朝に降伏し、三種の神器を返却した。1352年(正平6年)1月、直義は鎌倉に追い込まれ、降伏した。幽閉された直義は、2月、急死した。
こうして観応の擾乱は決着をみる。
1339年(延元4年)に後醍醐天皇が没し、畿内は比較的平穏な状態となり、戦上手の師直と郎党は活躍の場を失っていた。一方、直義が法と正義に基づく幕政を推進したため、師直と衝突することは歴史的必然であった。
1349年(正平3年)8月、師直はクーデターを起こし、直義を出家に追い込んだ。しかし、1350年(正平4年)10月、直義は京都を出奔し、観応の擾乱が始まる。
直義は各地で兵を集め南朝に帰順し、尊氏・師直と対立する。1351年(正平5年)2月、師直と高一族が忙殺される。
尊氏は、直義と南朝の分断をはかるため、1351年(正平5年)10月、南朝に降伏し、三種の神器を返却した。1352年(正平6年)1月、直義は鎌倉に追い込まれ、降伏した。幽閉された直義は、2月、急死した。
こうして観応の擾乱は決着をみる。
武蔵野合戦と北条時行

北畠親房
足利氏と鎌倉幕府
- 足利〜足利はときどき天下をとる!?〜:ブラタモリ NHK
この時代の世界
(この項おわり)
1350年(正平4年)から1352年にかけ弟・直義と高師直の間に政治闘争「観応の擾乱」が起き、その後の混乱に乗じ、北条時行に鎌倉を一時的に奪還されるが、最終的に尊氏が勝利を収めた。
1573年(元亀4年)までの約240年間を室町時代と呼ぶ。