西暦1338年 - 足利尊氏、征夷大将軍に任官

室町幕府がはじまる
足利尊氏(高師直との説も)
足利尊氏(高師直との説も)
1338年(暦応元年/延元3年)、足利尊氏 (あしかがたかうじ) 征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん) に任官され、京都室町に幕府を開く。
1350年(正平4年)から1352年にかけ弟・直義と高師直の間に政治闘争「観応の擾乱」が起き、その後の混乱に乗じ、北条時行に鎌倉を一時的に奪還されるが、最終的に尊氏が勝利を収めた。
1573年(元亀4年)までの約240年間を室町時代と呼ぶ。

目次

鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立まで

後醍醐天皇
後醍醐天皇
鎌倉幕府が滅亡し、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、自らが政治を行う「建武の新政」をはじめた後醍醐天皇 (ごだいごてんのう) であったが、領主や武士団の不満を解消するには至らなかった。
1335年(建武2年)7月、諏訪に潜伏していた北条時行(最後の執権・高時の次男)が挙兵し、鎌倉を占拠する中先代の乱 (なかせんだいのらん) が勃発する。
足利尊氏 (あしかがたかうじ) が時行討伐に向かい、鎌倉を奪還するが、京へ戻らなかった。
新田義貞
新田義貞
そこで後醍醐は、新田義貞 (にったよしさだ) 北畠顕家 (きたばたけあきいえ) らに尊氏討伐を命じる。足利尊氏は、いったん九州へ下り、兵を立て直し、持明院統 (じみょういんとう) 光厳上皇 (こうごんじょうこう) 院宣 (いんぜん) を掲げて京都へ進軍する。
1336年(延元元年/建武3年)11月2日、ついに後醍醐天皇は三種の神器光明天皇 (こうみょうてんのう) に譲らざるを得なくなり、ここに建武の新政は終わりを告げる。

尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11月7日には建武式目 (けんむしきもく) を定め、幕府の基本方針を示した。この年(1336年)をもって室町幕府の始まりとする考え方もある。
光明天皇
光明天皇
一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。
中先代の乱で破れた北条時行は南朝に帰順し、北畠顕家や新田義貞の子、義興 (よしおき) と結び、京奪還に向かう。途中、鎌倉を奪還するが、1338年(延元3年)5月、大阪で顕家が討死してしまう。時行は難を逃れ、再び姿をくらました。
8月、尊氏は待望の征夷大将軍に任官されたのであった。

観応の擾乱

1348年(正平2年)頃から、尊氏の弟・足利直義 (あしかが ただよし) と、幕府執事・高師直 (こうの もろなお) の間に政治闘争が起きた。
1339年(延元4年)に後醍醐天皇が没し、畿内は比較的平穏な状態となり、戦上手の師直と郎党は活躍の場を失っていた。一方、直義が法と正義に基づく幕政を推進したため、師直と衝突することは歴史的必然であった。
1349年(正平3年)8月、師直はクーデターを起こし、直義を出家に追い込んだ。しかし、1350年(正平4年)10月、直義は京都を出奔し、観応の擾乱が始まる。
直義は各地で兵を集め南朝に帰順し、尊氏・師直と対立する。1351年(正平5年)2月、師直と高一族が忙殺される。
尊氏は、直義と南朝の分断をはかるため、1351年(正平5年)10月、南朝に降伏し、三種の神器を返却した。1352年(正平6年)1月、直義は鎌倉に追い込まれ、降伏した。幽閉された直義は、2月、急死した。
こうして観応の擾乱は決着をみる。

武蔵野合戦と北条時行

北畠親房
北畠親房
1352年(正平6年)、南朝の北畠親房 (きたばたけ ちかふさ) は京都と鎌倉の同時奪還を目指し、再び南北朝の対立が激化する。
行方をくらましていた北条時行が加わり、武蔵野合戦が起きる。2月、3回目の鎌倉奪還に成功する。だが、小手指原の戦いに敗戦し、3月には鎌倉を制圧されてしまう。

1353年(正平7年)6月、時行はついに捕らえられ、鎌倉で処刑された。
時行生存説もあり、その子孫が北条早雲であるという。

足利氏と鎌倉幕府

足利氏は、源義家(八幡太郎義家)の三男、源義国 (みなもとのよしくに) を始祖とする。義国の次男、源義康は軍事に秀でており、鳥羽上皇の北面武士となり、保元の乱においては平清盛や源義朝と共に後白河天皇について戦かい、足利氏を名乗り、所領の下野国足利荘(栃木県足利市)を発展させた。
息子の足利義兼 (あしかが よしかね) 源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得た。
また、義兼が頼朝の妻・北条政子の同母妹である北条時子を妻に迎えたのをはじめとして、代々北条氏と縁戚関係を結んだ。
義兼の三男で、足利家3代目当主となった足利義氏 (あしかが よしうじ) は、承久の乱において北条泰時を補佐した。

参考サイト

逃げ上手の若君
逃げ上手の若君(松井優征):少年ジャンプ

この時代の世界

1275 1300 1325 1350 1375 1400 1425 1338 足利尊氏、征夷大将軍に任官 1305 1358 足利尊氏 1306 1352 足利直義 1305? 1351 高師直 1336 1392 南北朝時代 1288 1339 後醍醐天皇 1321 1380 光明天皇 1333 鎌倉幕府滅亡 1335 中先代の乱 1325 1353 北条時行 1293 1354 北畠親房 1318 1338 北畠顕家 1294 1336 楠木正成 1301 1338 新田義貞 1313 1364 光厳天皇 1308 1335 護良親王 1303 1333 北条高時 1297 1348 花園天皇 1330 1367 足利義詮 1381 花の御所の完成 1328 1398 朱元璋→洪武帝 1368 明の建国 1335 1408 李成桂 1304 1368 イブン・バトゥータ 1332 1406 イブン・ハルドゥーン 1336 1405 ティムール 1370 ティムール帝国の成立 1324 マンサ・ムーサのメッカ巡礼 1309 1377 教皇のアヴィニョン捕囚 1336 1378 グレゴリウス11世 1348 黒死病がヨーロッパで猛威をふるう 1293 1350 フィリップ6世 1312 1377 エドワード3世 1356 カール4世の金印勅書 1316 1378 カール4世 1318 1389 ウルバヌス6世 1338 1380 シャルル5世 1342 1394 クレメンス7世 1313 1375 ボッカチオ 1304 1374 ペトラルカ 1340 1400 チョーサー 1298 「東方見聞録」出版 1321 ダンテ『神曲』完成 1325 アステカの首都テノチティトラン建設 1312 1337 マンサ・ムーサ Tooltip
(この項おわり)
header