
コンスタンティノープル包囲戦
1453年、オスマン帝国のメフメト2世は10万の兵を率いてコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領し、西暦395年から続いた東ローマ帝国を滅ぼす。

メフメト2世
かつてユスティニアヌス帝が「これでソロモンの栄華をしのいだ」と豪語した聖ソフィア大聖堂は、陥落と同時にモスクに変えられてしまった。

以後イスラーム世界の君主や統治者たちは、トルコのスルタンに送る公式文書に「カイサル・イ・ルーム」すなわち「ローマ皇帝」と記すようになる。実際、オスマン帝国は東ローマの帝国機構の相当部分を受け継いでいた。

以後イスラーム世界の君主や統治者たちは、トルコのスルタンに送る公式文書に「カイサル・イ・ルーム」すなわち「ローマ皇帝」と記すようになる。実際、オスマン帝国は東ローマの帝国機構の相当部分を受け継いでいた。

コンスタンティヌス11世
その結果、コンスタンティノープルを経由する地中海貿易で栄えていたジェノヴァやヴェネツィアなどの都市国家の権益がオスマン帝国に奪われ、これらの都市は凋落し、スペインやポルトガルによる大航海時代へと移行する。
また、聖地を奪われた教皇の権威が失墜し、宗教改革の引き金となる。

東ローマ皇帝コンスタンティヌス11世は西ヨーロッパ諸国やローマ教皇ニコラウス5世に救援を求めたが、援軍を送ったのはコンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァだけだった。
また、聖地を奪われた教皇の権威が失墜し、宗教改革の引き金となる。

東ローマ皇帝コンスタンティヌス11世は西ヨーロッパ諸国やローマ教皇ニコラウス5世に救援を求めたが、援軍を送ったのはコンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァだけだった。

オスマン艦隊の山越え
オスマン軍は、海からもコンスタンティノーブルを包囲すべく艦隊を建造したが、東ローマ帝国が金角湾の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖を渡したため、その中に入ることができなかった。
そこで、金角湾の北側の陸地に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え、70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。
そこで、金角湾の北側の陸地に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え、70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。

現在のイスタンブール
「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。

オスマン帝国は、攻略したコンスタンティノープルを都イスタンブールとして華麗に蘇らせ、イスラーム世界に君臨することになる。

オスマン帝国は、攻略したコンスタンティノープルを都イスタンブールとして華麗に蘇らせ、イスラーム世界に君臨することになる。

ヴラド・ツェペシュ
ちなみに、オスマン帝国と国境を接していたワラキア公国(現在のルーマニアの一部)の君主ヴラド・ツェペシュ(ブラド3世)は、オスマン帝国の侵入から国土を守る戦いを続け、とくに1462年の戦いでは2万人のトルコ兵を串刺しにしたという。このことから、後年、吸血鬼ドラキュラのモデルとされる。
この時代の世界
コンスタンティノープル付近の地図
参考書籍
(この項おわり)