人の世むな (1467) しい応仁の乱

応仁の乱 - 真如堂縁起絵巻
1467年(応仁元年)5月26日、室町幕府の有力大名である山名宗全(持豊)(西軍)と細川勝元(東軍)が、8代将軍・足利義政の跡継ぎをめぐって対立を深めたことから、応仁の乱がはじまる。
1455年(享徳4年)8月27日、21歳の足利義政の正室として、16歳の日野富子が輿入れする。

1460年(長禄4年)から1461年にかけ、日本中が大飢饉に見舞われた。
しかし将軍義政は何ら対策を打たなかったため、富子が将軍に代わって幕府の資金を飢饉で苦しんでいる民衆に分け与えた。

義政は一刻も早い隠居を望んでいた。そこで、出家していた弟の義尋を還俗させ、1465年(寛正5年)11月、義視と改名、元服させて後継者とした。
ところが、その直後の11月23日、富子は次男・足利義尚を出産する。
このため、義視の後見人である細川勝元と、義尚を推す山名宗全の対立が激化した。さらに、三管領の斯波氏と畠山氏の内部で発生した相続争いを巻き込んで、戦渦が広がった。

1468年(応仁2年)11月、西軍が有利とみた義視は兄・義政を裏切り、西軍へ転向してしまう。怒った義政は、義視の将軍後継の権利を剥奪し、義尚を後継者に指名する。
1473年(文明5年)12月19日、応仁の乱が続く中、義政は隠居し、義尚が9代将軍に就任する。
こうして戦の目的は失われたのだが、大名たちは各々の面子のために戦を終わることができなかった。

1476年(文明8年)11月12日、京都で大火が発生。内裏や幕府の建物が焼失した。
日野富子は金融業者の土倉に近づき、資金提供してもらった。

やがて山名宗全が死没し、最後まで戦っていた大内政弘の処遇をめぐり、富子は政弘の降伏を条件に従四位下の位を授けてほしいと後土御門天皇に懇願した。天皇は富子の願いを聞き入れ、幕府は政弘の所領を安堵することで、1477年(文明9年)11月11日、政弘は帰国。11年続いた応仁の乱は終結する。しかし、地方での戦いは果てしなく続いた。
また、京都は荒れ果て、室町幕府の支配力は低下し、以降100年間に及ぶ戦国時代へ移行してゆく。

公家や僧侶は京都を離れ地方に逃れたため、京の文化が地方に伝わった。
ちなみに、西陣織で有名な京都西陣は、西軍の山名宗全の本陣が置かれたことに由来する。

1460年(長禄4年)から1461年にかけ、日本中が大飢饉に見舞われた。
しかし将軍義政は何ら対策を打たなかったため、富子が将軍に代わって幕府の資金を飢饉で苦しんでいる民衆に分け与えた。

義政は一刻も早い隠居を望んでいた。そこで、出家していた弟の義尋を還俗させ、1465年(寛正5年)11月、義視と改名、元服させて後継者とした。
ところが、その直後の11月23日、富子は次男・足利義尚を出産する。
このため、義視の後見人である細川勝元と、義尚を推す山名宗全の対立が激化した。さらに、三管領の斯波氏と畠山氏の内部で発生した相続争いを巻き込んで、戦渦が広がった。

1468年(応仁2年)11月、西軍が有利とみた義視は兄・義政を裏切り、西軍へ転向してしまう。怒った義政は、義視の将軍後継の権利を剥奪し、義尚を後継者に指名する。
1473年(文明5年)12月19日、応仁の乱が続く中、義政は隠居し、義尚が9代将軍に就任する。
こうして戦の目的は失われたのだが、大名たちは各々の面子のために戦を終わることができなかった。

1476年(文明8年)11月12日、京都で大火が発生。内裏や幕府の建物が焼失した。
日野富子は金融業者の土倉に近づき、資金提供してもらった。

やがて山名宗全が死没し、最後まで戦っていた大内政弘の処遇をめぐり、富子は政弘の降伏を条件に従四位下の位を授けてほしいと後土御門天皇に懇願した。天皇は富子の願いを聞き入れ、幕府は政弘の所領を安堵することで、1477年(文明9年)11月11日、政弘は帰国。11年続いた応仁の乱は終結する。しかし、地方での戦いは果てしなく続いた。
また、京都は荒れ果て、室町幕府の支配力は低下し、以降100年間に及ぶ戦国時代へ移行してゆく。

公家や僧侶は京都を離れ地方に逃れたため、京の文化が地方に伝わった。
ちなみに、西陣織で有名な京都西陣は、西軍の山名宗全の本陣が置かれたことに由来する。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)