桶狭間古戦場公園は義元が討ち取られた地

2024年8月10日 撮影
桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3-1001)は、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に、約2千の織田信長軍が約2万5千の今川義元軍を奇襲し、義元を討ち取った桶狭間の戦いの戦いの中心となった田楽坪 (でんがくつぼ) に、2010年(平成22年)に整備された史跡公園だ。
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JR東海道本線「南大高駅」 - 桶狭間
JR東海道本線「南大高駅」
この日は、名古屋駅から東海道線に乗って南大高駅で下車。名古屋市営バスに乗って、桶狭間古戦場公園へ向かう。バスで約13分だが、1時間に1本しかないので乗り換えに注意。
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JR東海道本線「南大高駅」 - 桶狭間
JR東海道本線「南大高駅」
名鉄名古屋本線「有松駅」からもバスが出ており、こちらの所要時間は約7分。南大高駅よりも本数が多い。
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バス停「桶狭間寺前」 - 桶狭間
バス停「桶狭間寺前」
「桶狭間古戦場公園」の1つ前のバス停「桶狭間寺前」を降りると、東側に大池が見える。
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戦評の松 - 桶狭間
戦評の松
バス停「桶狭間寺前」の近くに「戦評の松」がある。
当時、大きな松があり、その下で今川軍の先発隊として偵察や本陣の設営などを行っていた瀬名氏俊 (せな うじとし) が配下の武将を集めて戦評を行った場所とされる。氏俊自身は、この後、大高城へ向かったため、桶狭間の戦いには参戦していない。
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織田信長像 - 桶狭間
織田信長像
バス通り沿いに北へ向かうと桶狭間古戦場観光案内所があるのだが、その手前の駐車場に威風堂々たる織田信長像が桶狭間山を睨んでいる。

「北斗の拳」でお馴染みの漫画家・原哲夫さんが、月刊コミックゼノンで連載中の「いくさの子ー織田三郎信長伝」と名古屋市がコラボして制作したとのこと。
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桶狭間古戦場観光案内所 - 桶狭間
桶狭間古戦場観光案内所
桶狭間古戦場観光案内所は、アパートの1階にある小さな観光案内所。
係員が丁寧に出迎えてくださり、椅子をすすめられ、予習にと10分のビデオを上映してくれた。視聴無料。室内が涼しく助かった。お土産やマップ、資料を販売している。
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おけはざま山 - 桶狭間
おけはざま山
観光案内所から大池を挟んで、義元の本陣があった おけはざま山が見える。いまは住宅地となっている。

信長は、簗田政綱 (やなだ まさつな) に命じ、大高や桶狭間の様子を調べあげており、戦評を終えた氏俊がおけはざま山に本陣を設営したことをキャッチした。
義元は午前11時頃に本陣に到着した直後から激しい雷雨に見舞われ、今川軍は鎧兜や槍を手放して避難したという。そこへ、すがさず織田軍が奇襲をかけ、今川軍は総崩れとなる。
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桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園
義元は追い詰められ、田楽坪(現在の桶狭間古戦場公園)へ後退する。そこへ服小平太 (はっとり こへいた) が襲いかかるが、逆に脚を切られてしまう。つづいて毛利新介 (もうり しんすけ) が義元を組み伏せ、首をとった。
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義元公首洗い泉 - 桶狭間
義元公首洗い泉
義元の首を洗ったとされる首洗い泉――1986年(昭和61年)に区画整理が行われるまで、この地では清水が豊富に湧き出ていたという。
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駿公墓碣 - 桶狭間
駿公墓碣
園内には今川義元の墓碑「駿公墓碣 (すんこうぼけつ) 」があり、毎年慰霊祭が行われている。
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桶狭間古戦場公園
ARポイント
園内には7つのARポイントがあり、スマホを使って戦いの様子を映像で見る事ができる。

今川軍の死者は2,700人あまり。有力武将を失い、今川軍は撤退。西三河から尾張に至る地域における今川勢は一掃された。
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桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園
今川軍の先遣隊として大高城を守備していた松平元康(のちの徳川家康)は兵を失う事もなく、岡崎城へ撤退した。義元の後を継いだ氏真が反撃しないことを知ると、今川氏に無断で織田氏と講和した。また、今川氏と武田氏の同盟も解消となり、上杉謙信の南進が先鋭化する。
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桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園
東側の不安がなくなった信長は、この後、美濃の斎藤氏との戦いに専念し、勢力を拡大していく。その信長も、22年後の本能寺の変に倒れ、さらに21年後の1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍となった。
今川義元と織田信長の像は、460年後の現代社会をどう見ているだろうか――。
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桶狭間の戦いがあった場所は?

1937年(昭和12年)に文化庁が調査し、国指定史跡として指定した桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市栄町南舘11)は、桶狭間古戦場公園から北東へ1kmの位置にある。
ここには、1771年(明和8年)12月に尾張藩士の人見弥衛門と赤林孫七郎が建立した七石表という7本の石碑がある。桶狭間をめぐる遺物の中では最も古いものであることから、この地が古戦場として認められた。それでも、桶狭間の戦いから100年以上が経過しており、ここで戦いが行われていたかは定かでない。明治になってから、義元の墓が建てられた。

桶狭間古戦場伝説地に隣接する高徳院には今川義元の本陣があったとされているが、『信長公記』によると、義元は高台に本陣を構えており、そこへ正面から奇襲をかけたと記されていることから、おけはざま山に本陣があったというのが最近有力な説となっている。

桶狭間古戦場公園は名古屋市緑区、桶狭間古戦場伝説地は豊明市にあることから、両市で別々の桶狭間古戦場まつりを開催している。

交通アクセス

【鉄道+バス】
  • JR東海道本線「南大高駅」下車、名古屋市営バスで約13分
  • 名鉄名古屋本線「有松駅」下車、名古屋市営バスで約7分
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出発地の最寄駅:

目的地:桶狭間古戦場公園
桶狭間 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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