銃後群れ (1560) なす桶狭間
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区)において、織田信長軍2,000が上洛途上であった駿河の戦国大名・今川義元軍25,000の本陣を奇襲し、義元を討ち取るという桶狭間の戦いが勃発する。
これを契機に信長は勢力を拡大し、全国制覇へ向かって走り始める。また、東海地方最大の戦国大名・今川氏が没落することで、周辺のパワーバランスが崩れていき、戦国時代の転換点としても重要だ。田楽狭間の戦いともいう。
桶狭間の戦いが起きるまで
一方、1559年(永禄2年)に尾張を統一した織田信長は、今川軍の侵攻を警戒し、鳴海城と大高城の近くに砦を築き、監視を強化した。義元は鳴海城と大高城の救出を名目に、尾張進行を決断する。5月12日に兵力25,000を率いて駿府を出陣した。
義元は上洛のために尾張を通過するという説が有力だったが、最近の研究によると、尾張との国境紛争解決のために挙兵したようである。
義元は上洛のために尾張を通過するという説が有力だったが、最近の研究によると、尾張との国境紛争解決のために挙兵したようである。
桶狭間の戦い当日の様子
信長は、佐々木政次と千秋末忠に300名の兵を与え、今川の先陣隊への陽動作戦を命じる。
信長本隊が熱田神宮を出ると激しい豪雨と雷鳴に見舞われた。午前11時頃、義元がおけはざま山の陣地に到着したが、豪雨と雷鳴のため、鎧兜を脱ぎ、槍を手放して避難し、信長本隊の進軍に気付くことができなかった。
信長本隊が熱田神宮を出ると激しい豪雨と雷鳴に見舞われた。午前11時頃、義元がおけはざま山の陣地に到着したが、豪雨と雷鳴のため、鎧兜を脱ぎ、槍を手放して避難し、信長本隊の進軍に気付くことができなかった。
信長本隊は鎌ケ谷にに身を潜め、雷鳴が遠のくとともに今川軍本隊の右翼へ奇襲をかけた。信長の目標は明瞭で、義元の首、その1点だった。
午後2時頃、義元が乗ってきた塗輿を見つけた信長は、総攻撃を命じる。今川軍は総崩れとなり、義元は追い詰められ、田楽坪(現在の桶狭間古戦場公園)へ後退する。そこへ服小平太が襲いかかるが、逆に脚を切られてしまう。つづいて毛利新介が義元を組み伏せ、首をとった。
信長は、長福寺で義元や主立った武将の首検証を行い、悠然と清洲へ引き揚げた。
戦の論功行賞で、信長は、義元を討ち取った信介より、本陣の情報をもたらした政綱に多くの恩賞を与え、沓掛を治めさせた。このことから、信長は情報戦を重視していたことがうかがわれる。
午後2時頃、義元が乗ってきた塗輿を見つけた信長は、総攻撃を命じる。今川軍は総崩れとなり、義元は追い詰められ、田楽坪(現在の桶狭間古戦場公園)へ後退する。そこへ服小平太が襲いかかるが、逆に脚を切られてしまう。つづいて毛利新介が義元を組み伏せ、首をとった。
信長は、長福寺で義元や主立った武将の首検証を行い、悠然と清洲へ引き揚げた。
戦の論功行賞で、信長は、義元を討ち取った信介より、本陣の情報をもたらした政綱に多くの恩賞を与え、沓掛を治めさせた。このことから、信長は情報戦を重視していたことがうかがわれる。
戦後処理
桶狭間の戦いで勝利した織田信長は「天下布武」を掲げ、全国統一に打って出るとともに、社会制度改革に着手する。
今川家の家督を相続した今川氏真だったが、重臣の多くが討ち死にし、離反者が急増した。
とくに桶狭間の戦いで先陣を担った三河衆は犠牲が大きかったが、それに見合う保障がでなかったことから離反が相次いだ。5月19日に大高城で義元討ち死にの報を受けた松平元康は、早々に岡崎城へ退去した。元康の動きは速く、直参家臣に犠牲者を出さずに済み、三河衆に担がれる形で1561年(永禄4年)に今川氏と断交し、信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。15634年には、義元から賜った名前の「元」を返上し、家康と名を改めた。
今川氏の凋落により甲相駿三国同盟は機能しなくなり、敵対勢力である上杉謙信が勢いを増し、1560年(永禄3年)に小田原城の戦い、1561年(永禄4年)に第四次川中島合戦を起こす。
武田氏、織田氏、松平氏が同盟関係となり、氏真はいよいよ追い詰められ、謙信と同盟を結ぼうと画策するが実現せず、1568年(永禄11年)12月、沓掛城は徳川軍に包囲される。1569年(永禄12年)5月、氏真は沓掛城を開城し、今川家は滅びる。なお、氏真は江戸時代まで生きながらえ、1615年(慶長20年)に77歳で生涯を終えた。
今川家の家督を相続した今川氏真だったが、重臣の多くが討ち死にし、離反者が急増した。
とくに桶狭間の戦いで先陣を担った三河衆は犠牲が大きかったが、それに見合う保障がでなかったことから離反が相次いだ。5月19日に大高城で義元討ち死にの報を受けた松平元康は、早々に岡崎城へ退去した。元康の動きは速く、直参家臣に犠牲者を出さずに済み、三河衆に担がれる形で1561年(永禄4年)に今川氏と断交し、信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。15634年には、義元から賜った名前の「元」を返上し、家康と名を改めた。
今川氏の凋落により甲相駿三国同盟は機能しなくなり、敵対勢力である上杉謙信が勢いを増し、1560年(永禄3年)に小田原城の戦い、1561年(永禄4年)に第四次川中島合戦を起こす。
武田氏、織田氏、松平氏が同盟関係となり、氏真はいよいよ追い詰められ、謙信と同盟を結ぼうと画策するが実現せず、1568年(永禄11年)12月、沓掛城は徳川軍に包囲される。1569年(永禄12年)5月、氏真は沓掛城を開城し、今川家は滅びる。なお、氏真は江戸時代まで生きながらえ、1615年(慶長20年)に77歳で生涯を終えた。
付近の地図
【鉄道+バス】
- JR東海道本線「南大高駅」下車、名古屋市営バスで約13分
- 名鉄名古屋本線「有松駅」下車、名古屋市営バスで約7分
参考サイト
- 桶狭間古戦場公園は義元が討ち取られた地:ぱふぅ家のホームページ
- 熱田神宮は草薙剣を祀る:ぱふぅ家のホームページ
- 岡崎城は徳川家康が生まれた場所:ぱふぅ家のホームページ
- 織田対今川・桶狭間の戦い:NHK
- 桶狭間古戦場公園:NPO法人桶狭間古戦場保存会
- 桶狭間古戦場公園:公益財団法人名古屋観光コンベンションビューロー
- 桶狭間の戦い:刀剣ワールド
- 桶狭間の戦い:国立公文書館
- 桶狭間の戦い:NPO法人桶狭間古戦場保存会
(この項おわり)