晴れ (800) て皇帝、カール大帝

ジャン・フーケ「カールの戴冠」

751年、トゥール・ポアティエの戦いで勝利したカール・マルテルの息子ピピンが、メロヴィング朝の国王を退位させ、自らが即位してカロリング朝を興した。そして、東ローマ(ビザンツ)皇帝と教義上の対立を深めていたローマ教皇に対しラヴェンナを寄進するなど、結びつきを深めた。
ピピンの死後、フランク王国の王となったカールは、773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世から援軍を要請される。カールはアルプス山脈を越えてイタリアに攻め込み、ランゴバルド(ロンバルド)を占領し、中部イタリアをハドリアヌスに寄進した。

カールは北ドイツのゲルマン民族の一派ザクセン人(サクソン人)を討伐し、スペインのイスラム勢力を追い払った。
カールは46年の治世で53回も対外遠征を行っている。

カールは征服した各地に教会や修道院を建て、領地のフランク化を推進した。
また、人口数万人毎に管区を設定し、国王直属の伯を置いた。伯の世襲は禁ずることで中央集権化を強めた。

799年、教皇レオ3世は対立勢力に命を狙われ、カールの庇護を受けた。教皇側は西ローマ皇帝の復活を計画する。
カールは西ローマ皇帝が復活することによるビザンツ帝国との不和を懸念したが、広大な領土を治めるためには皇帝の権威も必要であった。一方のローマ教皇は、西ローマ皇帝に対して教皇権が優位であることを確認するとともに、ビザンツ帝国への牽制として西ローマ皇帝の復活は歓迎すべきことであった。
こうして両者の利害が一致し、800年12月25日、カールは西ローマ帝国の冠を戴くことになる。

一方、ビザンツ帝国では802年に財務官僚であったニケフォロス1世が即位する。
二ケフォロス1世の財政改革が成果をあげ、フランク王国のカール大帝との対外交渉も平和裏に進んだ。アッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが、ハールーン・アッラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。
こうして、ビザンツ帝国は久しぶりに安定と繁栄を迎える。

カールは北ドイツのゲルマン民族の一派ザクセン人(サクソン人)を討伐し、スペインのイスラム勢力を追い払った。
カールは46年の治世で53回も対外遠征を行っている。

カールは征服した各地に教会や修道院を建て、領地のフランク化を推進した。
また、人口数万人毎に管区を設定し、国王直属の伯を置いた。伯の世襲は禁ずることで中央集権化を強めた。

799年、教皇レオ3世は対立勢力に命を狙われ、カールの庇護を受けた。教皇側は西ローマ皇帝の復活を計画する。
カールは西ローマ皇帝が復活することによるビザンツ帝国との不和を懸念したが、広大な領土を治めるためには皇帝の権威も必要であった。一方のローマ教皇は、西ローマ皇帝に対して教皇権が優位であることを確認するとともに、ビザンツ帝国への牽制として西ローマ皇帝の復活は歓迎すべきことであった。
こうして両者の利害が一致し、800年12月25日、カールは西ローマ帝国の冠を戴くことになる。

一方、ビザンツ帝国では802年に財務官僚であったニケフォロス1世が即位する。
二ケフォロス1世の財政改革が成果をあげ、フランク王国のカール大帝との対外交渉も平和裏に進んだ。アッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが、ハールーン・アッラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。
こうして、ビザンツ帝国は久しぶりに安定と繁栄を迎える。
カールの征服活動によって、スペインとイタリア南部を除く西ヨーロッパがひとつになり、ゆるやかだが共通の価値観のもとにまとめられた。
カールの帝国はすぐに分裂するが、この時代の統と分裂は、現代ヨーロッパの地域的枠組みにも影響を及ぼしている。
カールの帝国はすぐに分裂するが、この時代の統と分裂は、現代ヨーロッパの地域的枠組みにも影響を及ぼしている。

この時代の世界
(この項おわり)
これは、ゲルマン、キリスト教、ローマの3つの要素が結合し、西欧世界が誕生したことを意味する。