
アッバース・モスク
第2代カリフマンスールが、762年、首都バグダッドの建設を開始。
首都バグダッドを中心に交通・通信網を整備し、最盛期にはモロッコから中央アジアまでの西アジアに巨大なイスラム帝国を築いていく。
中央アジアでは唐と領土を接することになり、はやくも751年にタラス河畔の戦いが起こり、唐を撃退した。
786年、ハールーン・アッラシードが即位すると、アッバース朝は最盛期を迎える。

アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。
これに対し、イラン人によるブワイフ朝や、エジプト人によるファーティマ朝はシーア派と呼ばれ、イスラム教徒の約1割を占める少数派である。

アッバース朝は、1258年にモンゴル帝国に征服されるまで続く。
首都バグダッドを中心に交通・通信網を整備し、最盛期にはモロッコから中央アジアまでの西アジアに巨大なイスラム帝国を築いていく。
中央アジアでは唐と領土を接することになり、はやくも751年にタラス河畔の戦いが起こり、唐を撃退した。
786年、ハールーン・アッラシードが即位すると、アッバース朝は最盛期を迎える。

アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。
これに対し、イラン人によるブワイフ朝や、エジプト人によるファーティマ朝はシーア派と呼ばれ、イスラム教徒の約1割を占める少数派である。

アッバース朝は、1258年にモンゴル帝国に征服されるまで続く。
この時代の世界
(この項おわり)
ウマイヤ朝に続き、アッバース朝でもカリフは世襲制で、アッバース家が代々世襲した。
また、官僚制度や法律を整備し、税制をあらため、アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてアラブ帝国をイスラーム帝国に変身させた。