
上海万博に際し復元された遣唐使船
第16次遣唐使船では、最澄は天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の僧侶だった。

すでに比叡山延暦寺を開創していた最澄が乗った船は9月に中国に到着し、天台教学を学ぶ。翌805年(延暦24年)に日本に帰り、806年(延暦25年)、に天台宗が開かれる。
813年(弘仁4年)、最澄は空海が持ち帰った阿闍梨灌頂を伝授するように願ったが、なお3年の実修を要すといって拒否された。

空海が乗った船は途中で嵐に遭い航路を大きく逸れ、8月に中国に漂着した。一時は海賊の嫌疑がかけられるが、12月に長安に入った。空海は留学期間20年の予定だったが、翌年8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、密教のすべてを学び、806年(大同元年)8月、日本への帰国の途につく。復路も嵐に遭うが、10月に無事に帰国する。
809年(大同4年)に即位した嵯峨天皇が即位すると、空海は入京する。816年(弘仁7年)6月、修行の場として高野山を下賜する旨勅許を賜る。その後、弟子らを派遣し、高野山の開創に着手する。空海は835年(承和2年)、満60歳で入滅するが、いまも高野山奥之院で瞑想されていると伝えられている。

すでに比叡山延暦寺を開創していた最澄が乗った船は9月に中国に到着し、天台教学を学ぶ。翌805年(延暦24年)に日本に帰り、806年(延暦25年)、に天台宗が開かれる。
813年(弘仁4年)、最澄は空海が持ち帰った阿闍梨灌頂を伝授するように願ったが、なお3年の実修を要すといって拒否された。

空海が乗った船は途中で嵐に遭い航路を大きく逸れ、8月に中国に漂着した。一時は海賊の嫌疑がかけられるが、12月に長安に入った。空海は留学期間20年の予定だったが、翌年8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、密教のすべてを学び、806年(大同元年)8月、日本への帰国の途につく。復路も嵐に遭うが、10月に無事に帰国する。
809年(大同4年)に即位した嵯峨天皇が即位すると、空海は入京する。816年(弘仁7年)6月、修行の場として高野山を下賜する旨勅許を賜る。その後、弟子らを派遣し、高野山の開創に着手する。空海は835年(承和2年)、満60歳で入滅するが、いまも高野山奥之院で瞑想されていると伝えられている。
この時代の世界
参考サイト
- 比叡山延暦寺と高野山を比較する:ぱふぅ家のホームページ
- 金剛峯寺は高野山真言宗の総本山:ぱふぅ家のホームページ
(この項おわり)
遣唐使は630年から838年まで19次に渡って派遣されたが、894年(寛平6年)には菅原道真らが大師に任命されただけで、実際には出向しなかった