
坂上氏は中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢氏に繋がる家系で、代々弓馬の道をよくする武門の一族として朝廷を守護してきた。

田村麻呂の父、坂上苅田麻呂は、770年(神護景雲4年)、称徳天皇が崩御すると、弓削道鏡の姦計をあばき、正四位下に進み、陸奥鎮守将軍となった。その後、従三位の地位まで出世している。

794年(延暦13年)、都を平安京に移した桓武天皇は、東国平定に力を入れた。これは、すべての国土・人民を天皇が治めることによって、天皇の徳が全国に行き渡る仁政を目指すものであった。実際は、東国の豊かな土地を獲得することで、そこから得られる生産物が律令国家を維持していくために有用であったためと考えられている。

796年(延暦15年)、坂上田村麻呂は陸奥・出羽の按察使と陸奥守兼鎮守府将軍に任命され、関東や北陸の民衆5千人を伊治城(現在の宮城県にあった)へ住まわせた。これは蝦夷と住民レベルの交流をはかることで、宥和することを狙った施策である。

797年(延暦16年)11月5日、40歳になった坂上田村麻呂は、史上初めて征夷大将軍に任命される。
田村麻呂は、帰順してくる蝦夷の者に対しては土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めた。しかし、抵抗する者に対しては、断固として武力でこれを弾圧した。

801年(延暦20年)、桓武天皇から節刀を授かった田村麻呂は、蝦夷の根拠地である胆沢(岩手県)の攻略に取りかかる。
そして、802年(延暦21年)4月15日、ついに蝦夷の指導者であった阿弖利為と母礼を降伏させる。
7月、阿弖利為と母礼を連行して平安京に凱旋した田村麻呂は、二人の助命を嘆願したが聞き入れられず、翌月、二人とも処刑された。

翌年、田村麻呂は胆沢城を築き、東国への睨みをきかせた。
大納言右近衛大将まで出世した田村麻呂は、弘仁2年、54歳で生涯を閉じる。

清水寺(京都府京都市東山区清水1-294)には、1994年(平成6年)、平安建都1200年を記念して阿弖利為と母礼の碑が建立された。

2011年(平成23年)9月2日、坂上田村麻呂が生まれた場所と伝えられる福島県郡山市田村町徳定に「生誕の地」を示す記念碑が建立された。田村麻呂が清水寺を建立したとされる伝説を縁に、清水寺の森清範貫主が碑文を記した。

田村麻呂の父、坂上苅田麻呂は、770年(神護景雲4年)、称徳天皇が崩御すると、弓削道鏡の姦計をあばき、正四位下に進み、陸奥鎮守将軍となった。その後、従三位の地位まで出世している。

794年(延暦13年)、都を平安京に移した桓武天皇は、東国平定に力を入れた。これは、すべての国土・人民を天皇が治めることによって、天皇の徳が全国に行き渡る仁政を目指すものであった。実際は、東国の豊かな土地を獲得することで、そこから得られる生産物が律令国家を維持していくために有用であったためと考えられている。

796年(延暦15年)、坂上田村麻呂は陸奥・出羽の按察使と陸奥守兼鎮守府将軍に任命され、関東や北陸の民衆5千人を伊治城(現在の宮城県にあった)へ住まわせた。これは蝦夷と住民レベルの交流をはかることで、宥和することを狙った施策である。

797年(延暦16年)11月5日、40歳になった坂上田村麻呂は、史上初めて征夷大将軍に任命される。
田村麻呂は、帰順してくる蝦夷の者に対しては土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めた。しかし、抵抗する者に対しては、断固として武力でこれを弾圧した。

801年(延暦20年)、桓武天皇から節刀を授かった田村麻呂は、蝦夷の根拠地である胆沢(岩手県)の攻略に取りかかる。
そして、802年(延暦21年)4月15日、ついに蝦夷の指導者であった阿弖利為と母礼を降伏させる。
7月、阿弖利為と母礼を連行して平安京に凱旋した田村麻呂は、二人の助命を嘆願したが聞き入れられず、翌月、二人とも処刑された。

翌年、田村麻呂は胆沢城を築き、東国への睨みをきかせた。
大納言右近衛大将まで出世した田村麻呂は、弘仁2年、54歳で生涯を閉じる。

清水寺(京都府京都市東山区清水1-294)には、1994年(平成6年)、平安建都1200年を記念して阿弖利為と母礼の碑が建立された。

2011年(平成23年)9月2日、坂上田村麻呂が生まれた場所と伝えられる福島県郡山市田村町徳定に「生誕の地」を示す記念碑が建立された。田村麻呂が清水寺を建立したとされる伝説を縁に、清水寺の森清範貫主が碑文を記した。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
火怨(上) 北の燿星アテルイ | ||
著者 | 高橋 克彦 | ||
出版社 | 講談社 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2002年10月 | ||
価格 | 968円(税込) | ||
ISBN | 9784062735285 | ||
辺境と蔑まれ、それゆえに朝廷の興味から遠ざけられ、平和に暮らしていた陸奥の民。八世紀、黄金を求めて支配せんとする朝廷の大軍に、蝦夷の若きリーダー・阿弓流為は遊撃戦を開始した。北の将たちの熱い思いと民の希望を担って。古代東北の英雄の生涯を空前のスケールで描く、吉川英治文学賞受賞の傑作。 | |||
![]() |
火怨(下) 北の燿星アテルイ | ||
著者 | 高橋 克彦 | ||
出版社 | 講談社 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2002年10月 | ||
価格 | 1,056円(税込) | ||
ISBN | 9784062735292 | ||
朝廷の大軍を退けた蝦夷たちの前に、智将・坂上田村麻呂が立ちはだかる。威信を懸けた朝廷の逆襲がはじまった。信に足る武人・田村麻呂の出現で、阿弓流為は、民のため命を捨てる覚悟を決めた。北の大地に将たちが一人、また一人と果てていく。蝦夷の心を守り戦い抜いた古代の英雄を、圧倒的迫力で描く歴史巨編。 | |||
胆沢城跡
岩手県奥州市水沢区佐倉河字九蔵田

【アクセス】

【アクセス】
- JR水沢駅よりバスで旧国道4号を北上して約15分。佐倉河「八幡」で下車する。
(この項おわり)
坂上田村麻呂は、身長176センチ、体重120キロの巨漢で、目は鷹のように鋭く、怒ると猛獣をも倒すが、笑うと赤ん坊がよくなつくと伝えられている。