凌雲集 (イメージ)
嵯峨天皇の即位と弘仁文化
嵯峨天皇 (イメージ)
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文章経国思想の浸透
大学寮の紀伝道 (イメージ)
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薬子の変と文治政治への転換
806年(大同元年)に桓武天皇が亡くなると、平城天皇が即位したが、809年(大同4年)に病により弟の神野親王へ譲位した。これが嵯峨天皇である。ところが健康を取り戻した平城上皇は平城京へ移り、朝廷が平安京と平城京に分かれる「二所朝廷」と呼ばれる状態になった。

810年(大同5年)9月6日、平城上皇が平城京への遷都を命じる詔を出したことで対立は決定的となる。嵯峨天皇は先手を打ち、9月10日に藤原仲成を捕らえて左遷し、その妹で上皇の寵愛を受けていた藤原薬子の官位を剥奪した。仲成は11日夜に射殺され、薬子は12日に毒を仰いで自殺、平城上皇は出家した。これを薬子の変という。近年は事件の性格を重く見て「平城太上天皇の変」と呼ぶ教科書も増えている。

嵯峨天皇はこの争いに備えて、810年3月に天皇の機密文書を扱う蔵人所を設け、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任じていた。事件後の9月19日には「弘仁」と改元される。

この変を境に、天皇の権力をおびやかす大きな政変はしばらく起こらなくなった。武力による争いに人と財を割く必要が薄れ、朝廷は法令の整備と文化の振興に力を注ぐ文治政治へ舵を切る。『凌雲集』が編まれた814年は、政情が安定してからわずか4年後のことであり、詩集の編纂はこの転換を象徴する事業だった。
810年(大同5年)9月6日、平城上皇が平城京への遷都を命じる詔を出したことで対立は決定的となる。嵯峨天皇は先手を打ち、9月10日に藤原仲成を捕らえて左遷し、その妹で上皇の寵愛を受けていた藤原薬子の官位を剥奪した。仲成は11日夜に射殺され、薬子は12日に毒を仰いで自殺、平城上皇は出家した。これを薬子の変という。近年は事件の性格を重く見て「平城太上天皇の変」と呼ぶ教科書も増えている。
嵯峨天皇はこの争いに備えて、810年3月に天皇の機密文書を扱う蔵人所を設け、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任じていた。事件後の9月19日には「弘仁」と改元される。
この変を境に、天皇の権力をおびやかす大きな政変はしばらく起こらなくなった。武力による争いに人と財を割く必要が薄れ、朝廷は法令の整備と文化の振興に力を注ぐ文治政治へ舵を切る。『凌雲集』が編まれた814年は、政情が安定してからわずか4年後のことであり、詩集の編纂はこの転換を象徴する事業だった。
遣唐使・渤海使と漢詩外交
当時の東アジアでは、漢文が国際共通語だった。日本と渤海の使節は、言葉が通じなくても筆談で意思を伝え合い、外交文書も翻訳なしにやり取りできた。つまり漢詩文の能力は、そのまま外交の実務能力だったのである。

渤海使は727年から919年までに34回来日した記録が残る。814年(弘仁5年)9月には、王孝廉を大使とする使節が出雲に到着した。この一行は、大使・副使から判官・録事にいたるまで文人でそろえた顔ぶれで、宮廷での宴では日本側の文人と漢詩を贈り合っている。応対にあたった一人が、『凌雲集』の選者・菅原清公であった。

清公は804年(延暦23年)の遣唐使に判官として加わり、最澄・空海と同じ船団で唐へ渡った経験をもつ。唐の実情を知る人物が勅撰漢詩集の選者となり、渤海使の接待も務めたことは、当時の朝廷が漢詩文をどれほど実用的な技術と考えていたかを示している。使節をもてなす席で恥ずかしくない詩をつくれる人材を、国として確保し評価する必要があったのである。
渤海使は727年から919年までに34回来日した記録が残る。814年(弘仁5年)9月には、王孝廉を大使とする使節が出雲に到着した。この一行は、大使・副使から判官・録事にいたるまで文人でそろえた顔ぶれで、宮廷での宴では日本側の文人と漢詩を贈り合っている。応対にあたった一人が、『凌雲集』の選者・菅原清公であった。
清公は804年(延暦23年)の遣唐使に判官として加わり、最澄・空海と同じ船団で唐へ渡った経験をもつ。唐の実情を知る人物が勅撰漢詩集の選者となり、渤海使の接待も務めたことは、当時の朝廷が漢詩文をどれほど実用的な技術と考えていたかを示している。使節をもてなす席で恥ずかしくない詩をつくれる人材を、国として確保し評価する必要があったのである。
文芸至上主義とサロン文化
宮中の詩宴 (イメージ)
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嵯峨天皇の宮廷では、正月の内宴や春の花宴など、詩をつくるための宴がくり返し開かれた。天皇が題を示して詩を詠み、臣下がそれに和して詩を返す「君臣唱和」が、政治の場と一体になった社交として定着していく。
『凌雲集』に収められた詩の内容も、遊覧や宴集を詠んだものが中心で、餞別・贈答・哀傷・述懐・詠史・楽府などが続く。作品を爵位順に並べ、天皇の詩を巻頭に多く置く構成そのものが、詩を通じた君臣の結びつきを見せる仕掛けになっている。

貴族社会では、漢詩をうまくつくれるかどうかが教養と人物評価に直結した。血筋や官位だけでなく、詩文の才能によって天皇に近づける道が開かれたことで、文芸至上主義とも呼べる価値観が広がる。小野岑守、菅原清公、勇山文継といった中級貴族出身の文人が国家事業の中心にいたのは、その表れである。この空気は9世紀後半の菅原道真の登場にもつながっていく。
貴族社会では、漢詩をうまくつくれるかどうかが教養と人物評価に直結した。血筋や官位だけでなく、詩文の才能によって天皇に近づける道が開かれたことで、文芸至上主義とも呼べる価値観が広がる。小野岑守、菅原清公、勇山文継といった中級貴族出身の文人が国家事業の中心にいたのは、その表れである。この空気は9世紀後半の菅原道真の登場にもつながっていく。
勅撰三集の時代
『凌雲集』の編纂を皮切りに、天皇の命で漢詩集を編む事業が続く。『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の3つをまとめて勅撰三集と呼び、日本漢詩文の最盛期を示す作品群となった。

818年(弘仁9年)、藤原冬嗣が嵯峨天皇の勅を受けて指揮し、仲雄王、菅原清公、勇山文継、滋野貞主らが『文華秀麗集』を撰進した。全3巻、26人148首(現存本は143首)を収める。遊覧・宴集・餞別・贈答・詠史・述懐・艶情・楽府・梵門・哀傷・雑詠という11の部立てに分ける構成は、『文選』の分類法にならった新しい試みだった。

827年(天長4年)には、良岑安世を主宰として、滋野貞主、菅原清公、南淵弘貞らが『経国集』を編んだ。707年(慶雲4年)から827年までの121年間、178人の作品を収める全20巻の大部で、現存するのは6巻のみである。賦17首、詩917首、序51首のほか、官吏登用試験の答案である対策38首を収める点が珍しい。書名は、まさに『典論』の「文章は経国の大業」から採られている。

その後、遣唐使の派遣が途絶えて唐風一辺倒の空気がゆるむと、和歌が公の場に戻ってくる。905年(延喜5年)には日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂され、勅撰集の主役は漢詩から和歌へ移っていった。
818年(弘仁9年)、藤原冬嗣が嵯峨天皇の勅を受けて指揮し、仲雄王、菅原清公、勇山文継、滋野貞主らが『文華秀麗集』を撰進した。全3巻、26人148首(現存本は143首)を収める。遊覧・宴集・餞別・贈答・詠史・述懐・艶情・楽府・梵門・哀傷・雑詠という11の部立てに分ける構成は、『文選』の分類法にならった新しい試みだった。
827年(天長4年)には、良岑安世を主宰として、滋野貞主、菅原清公、南淵弘貞らが『経国集』を編んだ。707年(慶雲4年)から827年までの121年間、178人の作品を収める全20巻の大部で、現存するのは6巻のみである。賦17首、詩917首、序51首のほか、官吏登用試験の答案である対策38首を収める点が珍しい。書名は、まさに『典論』の「文章は経国の大業」から採られている。
その後、遣唐使の派遣が途絶えて唐風一辺倒の空気がゆるむと、和歌が公の場に戻ってくる。905年(延喜5年)には日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂され、勅撰集の主役は漢詩から和歌へ移っていった。
参考書籍
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謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年 | ||
| 著者 | 榎村寛之 | ||
| 出版社 | 中央公論新社 | ||
| サイズ | 新書 | ||
| 発売日 | 2023年12月20日頃 | ||
| 価格 | 1,100円(税込) | ||
| ISBN | 9784121027832 | ||
参考サイト
- 凌雲集:ジャパンナレッジ
- 文華秀麗集:ジャパンナレッジ
- 経国集:ジャパンナレッジ
- 凌雲集:コトバンク
- 弘仁貞観文化:コトバンク
- 薬子の変:コトバンク
- 蔵人所:コトバンク
- 西暦804年 - 最澄と空海が唐へ:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦905年 - 『古今和歌集』編纂:ぱふぅ家のホームページ
- 比叡山延暦寺と高野山を比較する:ぱふぅ家のホームページ
- 金剛峯寺は高野山真言宗の総本山:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
(この項おわり)



岑守の序文によれば、782年(延暦元年)から814年までの詩から23人90首を選んだとあり、現存本は24人91首を収める。作者は爵位順・個人別に並び、嵯峨天皇自身の詩が22首と最も多い。