西暦814年 - 『凌雲集』編纂

日本初の勅撰漢詩集
凌雲集
凌雲集 (イメージ)
814年(弘仁5年)、嵯峨天皇 (さがてんのう) の命により、小野岑守 (おのの みねもり) 、菅原清公 (すがわらの きよきみ) 、勇山文継 (いさやまの ふみつぐ) らによって編纂された日本初の勅撰漢詩集『凌雲集 (りょううんしゅう) 』が成立する。正式名称は『凌雲新集』。五言詩42首、七言詩49首の計91首を収める。

岑守の序文によれば、782年(延暦元年)から814年までの詩から23人90首を選んだとあり、現存本は24人91首を収める。作者は爵位 (しゃくい) 順・個人別に並び、嵯峨天皇自身の詩が22首と最も多い。
平安京に遷都した第50代・桓武天皇は、聖武天皇の血筋ではなかったことから、天帝から位を授かったという自らの正統性をアピールすべく、中国文化を積極的に採り入れた。この流れは、第51代・平城天皇 (へいぜいてんのう) 、第52代・嵯峨天皇にも受け継がれ、平安時代前期は王朝漢文学が全盛期を迎える。

目次

嵯峨天皇の即位と弘仁文化

嵯峨天皇 - 唐風の宮廷
嵯峨天皇 (イメージ)
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嵯峨天皇(786年~842年)は、809年(大同4年)に第52代天皇として即位し、823年(弘仁14年)に譲位した。書は空海、橘逸勢 (たちばなの はやなり) と並んで三筆 (さんぴつ) に数えられ、漢詩にも優れ、宮中の詩宴を精力的に開いた。
天皇の唐風好みは、文化だけでなく制度にも及んだ。818年(弘仁9年)には平安京の十二門の名を唐風に改め、宮中の儀式も唐の制度にならって改めている。同じ年には、律令を補う法令をまとめた弘仁格 (こうにんきゃく) を発布した。

9世紀前半を中心とするこの時代の文化は、のちに弘仁・貞観文化 (こうにん じょうがんぶんか) と呼ばれる。唐の影響を強く受けた唐風文化であり、以下のような特徴をもつ。
  • 漢詩文が和歌より格上と見なされ、公の場では漢文が用いられた
  • 最澄の天台宗、空海の真言宗という密教 (みっきょう) が広まり、山中に寺院が建てられた
  • 仏像は一木造 (いちぼくづくり) が主流となり、衣のひだを波のように刻む翻波式 (ほんぱしき) が流行した
  • 有力氏族が大学寮で学ぶ一族のために大学別曹 (だいがくべっそう) という寄宿施設を設けた

文章経国思想の浸透

大学寮で漢籍を学ぶ学生 - 紀伝道
大学寮の紀伝道 (イメージ)
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文章経国 (ぶんしょうけいこく) とは、すぐれた詩文が作られて文学が栄えることが国家経営の大業につながり、社会の安定をもたらすという政治思想である。魏の初代皇帝・曹丕 (そうひ) が著した『典論 (てんろん) 』の一節「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」がその出典である。
『典論』は、梁の時代に編まれた詩文集『文選 (もんぜん) 』の巻52に採録された。日本には、この『文選』の伝来とともに知られるようになる。桓武天皇以降、律令制を立て直す過程で中国の文物や制度が積極的に取り入れられ、文章経国思想は嵯峨天皇の弘仁年間に最盛期を迎えた。

この思想のもとでは、漢詩文をつくる能力は個人の趣味ではなく、国家に仕える官人の資格そのものとして扱われた。官吏を養成する大学寮 (だいがくりょう) では、漢文学と中国の正史を学ぶ紀伝道 (きでんどう) の地位が高められ、儒教の経典を学ぶ明経道 (みょうぎょうどう) をしのぐようになっていく。『凌雲集』が国家の事業として編まれたのも、詩集の編纂が政治そのものだと考えられていたからである。

薬子の変と文治政治への転換

806年(大同元年)に桓武天皇が亡くなると、平城天皇 (へいぜいてんのう) が即位したが、809年(大同4年)に病により弟の神野親王 (かみのしんのう) へ譲位した。これが嵯峨天皇である。ところが健康を取り戻した平城上皇は平城京へ移り、朝廷が平安京と平城京に分かれる「二所朝廷」と呼ばれる状態になった。

810年(大同5年)9月6日、平城上皇が平城京への遷都を命じる詔を出したことで対立は決定的となる。嵯峨天皇は先手を打ち、9月10日に藤原仲成 (ふじわらの なかなり) を捕らえて左遷し、その妹で上皇の寵愛 (ちょうあい) を受けていた藤原薬子 (ふじわらの くすこ) の官位を剥奪した。仲成は11日夜に射殺され、薬子は12日に毒を仰 (あお) いで自殺、平城上皇は出家した。これを薬子の変 (くすこのへん) という。近年は事件の性格を重く見て「平城太上天皇の変」と呼ぶ教科書も増えている。

嵯峨天皇はこの争いに備えて、810年3月に天皇の機密文書を扱う蔵人所 (くろうどどころ) を設け、巨勢野足 (こせの のたり) と藤原冬嗣 (ふじわらの ふゆつぐ) を蔵人頭 (くろうどのとう) に任じていた。事件後の9月19日には「弘仁」と改元される。

この変を境に、天皇の権力をおびやかす大きな政変はしばらく起こらなくなった。武力による争いに人と財を割く必要が薄れ、朝廷は法令の整備と文化の振興に力を注ぐ文治政治へ舵を切る。『凌雲集』が編まれた814年は、政情が安定してからわずか4年後のことであり、詩集の編纂はこの転換を象徴する事業だった。

遣唐使・渤海使と漢詩外交

当時の東アジアでは、漢文が国際共通語だった。日本と渤海 (ぼっかい) の使節は、言葉が通じなくても筆談で意思を伝え合い、外交文書も翻訳なしにやり取りできた。つまり漢詩文の能力は、そのまま外交の実務能力だったのである。

渤海使 (ぼっかいし) は727年から919年までに34回来日した記録が残る。814年(弘仁5年)9月には、王孝廉 (おう こうれん) を大使とする使節が出雲に到着した。この一行は、大使・副使から判官・録事にいたるまで文人でそろえた顔ぶれで、宮廷での宴では日本側の文人と漢詩を贈り合っている。応対にあたった一人が、『凌雲集』の選者・菅原清公であった。

清公は804年(延暦23年)の遣唐使 (けんとうし) に判官として加わり、最澄・空海と同じ船団で唐へ渡った経験をもつ。唐の実情を知る人物が勅撰漢詩集の選者となり、渤海使の接待も務めたことは、当時の朝廷が漢詩文をどれほど実用的な技術と考えていたかを示している。使節をもてなす席で恥ずかしくない詩をつくれる人材を、国として確保し評価する必要があったのである。

文芸至上主義とサロン文化

宮中の詩宴 - 君臣唱和
宮中の詩宴 (イメージ)
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嵯峨天皇の宮廷では、正月の内宴 (ないえん) や春の花宴 (かえん) など、詩をつくるための宴がくり返し開かれた。天皇が題を示して詩を詠み、臣下がそれに和して詩を返す「君臣唱和 (くんしんしょうわ) 」が、政治の場と一体になった社交として定着していく。
『凌雲集』に収められた詩の内容も、遊覧や宴集を詠んだものが中心で、餞別・贈答・哀傷 (あいしょう) ・述懐 (じゅっかい) ・詠史・楽府 (がふ) などが続く。作品を爵位順に並べ、天皇の詩を巻頭に多く置く構成そのものが、詩を通じた君臣の結びつきを見せる仕掛けになっている。

貴族社会では、漢詩をうまくつくれるかどうかが教養と人物評価に直結した。血筋や官位だけでなく、詩文の才能によって天皇に近づける道が開かれたことで、文芸至上主義とも呼べる価値観が広がる。小野岑守、菅原清公、勇山文継といった中級貴族出身の文人が国家事業の中心にいたのは、その表れである。この空気は9世紀後半の菅原道真の登場にもつながっていく。

勅撰三集の時代

『凌雲集』の編纂を皮切りに、天皇の命で漢詩集を編む事業が続く。『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の3つをまとめて勅撰三集と呼び、日本漢詩文の最盛期を示す作品群となった。

818年(弘仁9年)、藤原冬嗣 (ふじわらの ふゆつぐ) が嵯峨天皇の勅を受けて指揮し、仲雄王 (なかおおう) 、菅原清公、勇山文継、滋野貞主 (しげのの さだぬし) らが『文華秀麗集 (ぶんかしゅうれいしゅう) 』を撰進した。全3巻、26人148首(現存本は143首)を収める。遊覧・宴集・餞別・贈答・詠史・述懐・艶情 (えんじょう) ・楽府・梵門 (ぼんもん) ・哀傷・雑詠という11の部立てに分ける構成は、『文選』の分類法にならった新しい試みだった。

827年(天長4年)には、良岑安世 (よしみねの やすよ) を主宰として、滋野貞主、菅原清公、南淵弘貞 (みなぶちの ひろさだ) らが『経国集 (けいこくしゅう) 』を編んだ。707年(慶雲4年)から827年までの121年間、178人の作品を収める全20巻の大部で、現存するのは6巻のみである。賦17首、詩917首、序51首のほか、官吏登用試験の答案である対策 (たいさく) 38首を収める点が珍しい。書名は、まさに『典論』の「文章は経国の大業」から採られている。

その後、遣唐使の派遣が途絶えて唐風一辺倒の空気がゆるむと、和歌が公の場に戻ってくる。905年(延喜5年)には日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂され、勅撰集の主役は漢詩から和歌へ移っていった。

参考書籍

表紙 謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年
著者 榎村寛之
出版社 中央公論新社
サイズ 新書
発売日 2023年12月20日頃
価格 1,100円(税込)
ISBN 9784121027832

参考サイト

この時代の世界

725 775 825 875 800 800 800 814 『凌雲集』編纂 773 828 勇山文継 778 830 小野岑守 770 842 菅原清公 786 842 嵯峨天皇 775 826 藤原冬嗣 804 872 藤原良房 737 806 桓武天皇 784 長岡京へ遷都 794 平安京へ遷都 774 824 平城天皇 804 最澄、空海が唐へ 767 822 最澄 774 835 空海 802 坂上田村麻呂が東国を平定 758 811 坂上田村麻呂 760 802 阿弖利為 755 763 安史の乱 742 805 徳宗 780 850 フワーリズミー 750 アッバース朝が成立 786 ハールーン・アッラシードが即位 766 809 ハールーン・アッラシード 800 カールの戴冠 742 814 カール大帝 750 816 レオ3世 793 ヴァイキングがイングランドへ侵入 778 840 ルートウィヒ1世 795 855 ロタール1世 760 811 ニケフォロス1世 793 ヴァイキングがイングランドへ侵入 Tooltip
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