西暦1037年 - 聖ソフィア大聖堂(キエフ)の建立

キエフ大公国の黄金期
聖ソフィア大聖堂(キエフ)
聖ソフィア大聖堂(キエフ)
1037年、ウクライナ最初の中央政権キエフ大公国(ルーシー)の最大の聖堂として、ヤロスラフ1世の命により、キリスト教と国家の権威を内外に示すために聖ソフィア大聖堂が建立された。また、黄金の門(キエフの大門)も建立された。1990年、世界遺産(文化遺産)に登録された。
コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)にちなんで名付けられたと言われている。長さ39.5メートル、幅29.3メートル、高さ28.6メートルで、中世ヨーロッパ最大の建造物だった。
大聖堂の内部には、図書館と大学が設けられ、大公の戴冠式や葬儀など、国の政治・文化における重要な役割を担っていた。

キエフ大公国

キエフ大公国は、882年頃、オレグがキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。オレグの出自は定かでないが、ノルマン人のヴァイキングという説が有力である。建国当時はルーシーと呼ばれていた。
東スラブ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大した。南にある東ローマ帝国と戦いながらも、商人が行き来することでキリスト教などの文化が伝わった。
ヤロポルク1世(在位:972年~980年)はビザンツ皇帝バシレイオス2世の娘を妃に迎え、キリスト教を国教に定めた。
1016年に即位したヤロスラフ1世は、ポーランド王国に奪われていたヴォルイニ地方を奪い返し、スウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。
1054年、ヤロスラフ1世が没すると、キエフ大公の権威は低下し諸公が自立傾向を強めることになった。
1113年に大公となったウラジーミル2世と、その子ムスチスラフ1世の時代に大公国の統一を回復するが、1132年のムスチスラフの死後、再び分裂していく。1240年代、モンゴルの侵攻を受けキエフが陥落、大公国は消滅する。
ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代国家はいずれもキエフ大公国を文化的祖先としている。

この時代の世界

925 975 1025 1075 1125 1175 1037 聖ソフィア大聖堂(キエフ)の建立 978 1054 ヤロスラフ1世 1024 1078 イジャスラフ1世 1054 キリスト教会の東西分裂 958 1025 パシレイオス2世 1000 1059 ミハイル1世キルラリオス 990 1034 ミェシュコ2世 1042 1099 ウルバヌス2世 1020 1085 グレゴリウス7世 1066 ノルマン・コンクエスト 1077 カノッサの屈辱 1050 1106 ハインリヒ4世 1002 1054 レオ9世 1054 キリスト教会の東西分裂 1027 1087 ウィリアム1世 1038 セルジューク朝の建国 990 1063 トゥグリル・ベク 1029 1072 アルプ・アルスラーン 1017 1092 ニザーム・アルムルク 1048 1122 ウマル・ハイヤーム 1000 1057 安部頼時 1000 1062 藤原経清 988 1075 源頼義 988 1074 藤原彰子 992 1074 藤原頼通 1019 1062 安部貞任 1034 1073 後三条天皇 1051 1062 前九年の役 1039 1106 源義家 1083 1087 後三年の役 1086 院政のはじまり 1053 1129 白河天皇 1053 平等院鳳凰堂の建立 1054 おうし座に超新星出現 1019 1086 司馬光 1021 1086 王安石 1048 1085 神宗 1070 王安石の改革 Tooltip
(この項おわり)
header