ジャヤーヴァルマン7世
ジャヤーヴァルマン7世は内政にも手腕を発揮し、クメール王朝の最盛期をもたらした。
やがて仏教に傾倒するあまり、民衆に寺院造築のための重税を課し恨まれることになる。

1218年(建保5年)、クメールは南宋の朝廷に使節を派遣するが、ジャヤーヴァルマン7世は死没し、クメール王朝の衰退が始まる。
西部に居住するタイ人の台頭によってアンコールを中心とした水陸のネットワークは崩壊する。
やがて仏教に傾倒するあまり、民衆に寺院造築のための重税を課し恨まれることになる。
1218年(建保5年)、クメールは南宋の朝廷に使節を派遣するが、ジャヤーヴァルマン7世は死没し、クメール王朝の衰退が始まる。
西部に居住するタイ人の台頭によってアンコールを中心とした水陸のネットワークは崩壊する。
世界史上のポイント
法によって国を治める転輪聖王の理念(イメージ)
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歴代の王がヒンドゥー教の神々(ヴィシュヌ神やシヴァ神)に自らを重ねて権威を示した中で、仏教を掲げた統治はクメール王朝史上でも異例であった。ただし宮廷には引き続きヒンドゥー教のバラモンも仕え、二つの信仰が並び立つ形が保たれた。
ジャヤーヴァルマン7世の治世
四面の尊顔が並ぶバイヨン寺院(イメージ)
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ジャヤーヴァルマン7世は、チャンパの破壊で荒廃した都を再建し、堅固な城壁と濠を備えた新都「アンコール・トム」を築いた。その中心には、観音菩薩に見立てられる四面の尊顔(国王自身の顔とする説もある)が数十の塔に彫られた「バイヨン」寺院を建立し、「クメールの微笑み」として今に知られる。
王はまた、王国全土を結ぶ道路網を整備し、旅人のための宿駅(火の家)を15キロメートルごとに121か所、病院(アーロギャーシャーラ)を102か所建設するなど、先進的な福祉・交通政策を推し進めた。

対外的には、1190年(文治5年)に再侵入したチャンパを撃退し、翌年にかけてその首都ヴィジャヤを占領してチャンパを服属させた。以後チャンパは、約30年にわたりクメール王朝の勢力下に置かれることになる。
対外的には、1190年(文治5年)に再侵入したチャンパを撃退し、翌年にかけてその首都ヴィジャヤを占領してチャンパを服属させた。以後チャンパは、約30年にわたりクメール王朝の勢力下に置かれることになる。
当時の東南アジアの勢力図
インドシナ半島の大部分を治めたクメール帝国(イメージ)
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ジャヤーヴァルマン7世の治世、クメール王朝は現在のカンボジアを中心に、タイ、ラオス、ベトナム南部、マレー半島の一部にまで及ぶ、王朝史上最大の版図を築いた。チャンパ王国は1190年代から約30年にわたりクメールの勢力下に置かれ、チャオプラヤー川流域などに住んでいたタイ系諸民族もクメールの支配・影響下にあった。
ただし、この広大な支配は軍事力による直接統治というより、地方領主を介した緩やかな覇権であったとみられている。とりわけ西方のタイ系諸民族の地域では、クメールの統制はさほど強くなかったとされる。
周辺諸国への影響
疲弊したチャンパの都(イメージ)
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長期にわたる戦争と占領によって、チャンパ王国は国力を大きく疲弊させ、その後の衰退につながった。一方、クメール王朝の版図拡大にともない、大乗仏教の文化や高度な建築・土木技術がインドシナ半島各地へ広がった。
チャンパの服属は永続的なものではなかった。13世紀に入り、クメール王朝の統制が弱まるにつれて、チャンパは再び独立を回復していく。
後世への影響
世界遺産に登録されたアンコール遺跡群(イメージ)
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参考サイト
この時代の世界
(この項おわり)

即位後、チャンパの破壊で荒廃した首都の再建に取り掛かった。再度のチャンパ王国の襲来に備えて防衛に重点が置かれ、新たに建設された首都アンコール・トムには高さ約8メートルの城壁と幅約100メートルの外濠が設けられた。
1190年(文治5年)に再度カンボジアに侵入したチャンパを撃退し、逆にチャンパ王国の首都ヴィジャヤを占領する。