
平治物語絵巻 三条殿焼討巻
1159年(平治元年)12月、後白河上皇の側近の間にクーデターが発生し、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、信西(藤原通憲)殺害という事件に発展した。

平清盛像(宮島)

後白河上皇

二条天皇

源義朝
1159年(平治元年)12月9日、藤原信頼は源義朝の手勢と共に後白河上皇と二条天皇の身柄を確保する。急なことで追い詰められた信西は自刃する。源義朝の三男、源頼朝は右兵衛権佐となった。
このとき、平清盛は紀伊国でこの知らせを聞き、上洛するかどうか迷っていた。しかし、信頼は信西に代わって政権を操ろうと目論んでおり、貴族からの評判は悪かった。
このとき、平清盛は紀伊国でこの知らせを聞き、上洛するかどうか迷っていた。しかし、信頼は信西に代わって政権を操ろうと目論んでおり、貴族からの評判は悪かった。

源頼朝(足利直義とも)
そこで清盛は、後白河上皇と二条天皇を脱出させ、12月25日、自らの館がある六波羅で信頼・義朝に戦闘を仕掛けた。
間もなく兵力で圧倒していた清盛軍が勝利し、藤原信頼は処刑された。源義朝は東国へ落ち延びるが、途中で頼朝とはぐれ、尾張国で殺害された。
1160年(平治2年)、源頼朝は近江国で捕らえられるが、清盛の継母である池禅尼の助命嘆願などにより処刑は免れ、伊豆の国へ流刑となった。長男の義平は京都で処刑され、次男の朝長は負傷により落命。こうして頼朝が源氏の嫡男となる。
間もなく兵力で圧倒していた清盛軍が勝利し、藤原信頼は処刑された。源義朝は東国へ落ち延びるが、途中で頼朝とはぐれ、尾張国で殺害された。
1160年(平治2年)、源頼朝は近江国で捕らえられるが、清盛の継母である池禅尼の助命嘆願などにより処刑は免れ、伊豆の国へ流刑となった。長男の義平は京都で処刑され、次男の朝長は負傷により落命。こうして頼朝が源氏の嫡男となる。

高倉天皇
(この項おわり)