
鎌倉大仏
4代執権となった北条経時は、九条頼経を将軍職から引きずり下ろすが、病弱で、4年間執権を務めると、弟の時頼に後を託した。時頼の時代、武士が荘園を管理、経営するようになり、領民に対する姿勢が変化した。時頼は民をいたわるという思想(撫民)を強調し、禅宗を保護した。
鎌倉仏教
平安時代に仏教の二大勢力だった東大寺興福寺を中心とした南都六宗と、比叡山延暦寺の天台宗は、いずれも金儲けや政治に夢中になり、腐敗しきっていた。さらに、お釈迦様の死後、長い時間が経過すると、人々はお釈迦様の教えを理解できなくなってしまうという末法が1052年(永承7年)に始まると信じられていたため、あらたな信仰の在り方を模索する動きが出てきた。

鎌倉時代に入ると、仏教が武士や庶民に浸透し、信者が爆発的に増え、新しい6つの宗派が誕生した。いずれも、武士や庶民でも分かりやすいシンプルな教義になっている。

鎌倉時代に入ると、仏教が武士や庶民に浸透し、信者が爆発的に増え、新しい6つの宗派が誕生した。いずれも、武士や庶民でも分かりやすいシンプルな教義になっている。
宗派 | 開祖 | 中心寺院 | 教義 | ||
---|---|---|---|---|---|
他力本願 | 1 | 浄土宗 | 法然 | 知恩院 | ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱える |
2 | 浄土真宗 真宗・一向宗 |
親鸞 | 東本願寺 西本願寺 |
一念発起、悪人正機 | |
3 | 時宗 | 一遍 | 清浄光寺 | 万人は念仏を唱えれば救われる | |
天台宗系 | 4 | 法華宗 | 日蓮 | 久遠寺 | 南無妙法蓮華経を唱えれば救われる |
禅宗 | 5 | 臨済宗 | 栄西 | 建仁寺 建長寺 |
座禅 |
6 | 曹洞宗 | 道元 | 永平寺 | 座禅 |
鎌倉では、奈良・京都と異なり、公家文化に妨げられることなく、中国文化を積極的に導入できた。

建長寺は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が1255年(建長7年)に創建した。初代住職は、中国南宋の禅僧・蘭渓道隆で、建物内に土足ではいることができる、椅子に座るなど、当時最先端の中国様式を採り入れた寺院だった。蘭渓道隆は中国から油で炒める調理法を導入し、けんちん汁は建長寺の精進料理から発症したと言われている。

極楽寺は、鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男、北条重時が1259年(正嘉3年)に創建した。初代住職の忍性は、奈良から石工集団を招聘し、鎌倉のインフラ整備を行った。往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていた。

称名寺は、北条氏の一族である金沢北条氏の祖、北条実時が1258年(正嘉2年)に創建した。金沢北条氏が集めた書物は金沢文庫に収蔵され、称名寺とトンネルで繋がっていた。鎌倉幕府滅亡後も称名寺が管理し、11万点の資料のうち2万点が国宝に指定されている。

建長寺は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が1255年(建長7年)に創建した。初代住職は、中国南宋の禅僧・蘭渓道隆で、建物内に土足ではいることができる、椅子に座るなど、当時最先端の中国様式を採り入れた寺院だった。蘭渓道隆は中国から油で炒める調理法を導入し、けんちん汁は建長寺の精進料理から発症したと言われている。

極楽寺は、鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男、北条重時が1259年(正嘉3年)に創建した。初代住職の忍性は、奈良から石工集団を招聘し、鎌倉のインフラ整備を行った。往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていた。

称名寺は、北条氏の一族である金沢北条氏の祖、北条実時が1258年(正嘉2年)に創建した。金沢北条氏が集めた書物は金沢文庫に収蔵され、称名寺とトンネルで繋がっていた。鎌倉幕府滅亡後も称名寺が管理し、11万点の資料のうち2万点が国宝に指定されている。
参考サイト
- 鎌倉の寺~北条氏の寺でわかる!鎌倉幕府の偉業とは~:ブラタモリ,NHK
参考書籍
![]() |
北条氏の時代 | ||
著者 | 本郷 和人 | ||
出版社 | 文藝春秋 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2021年11月18日頃 | ||
価格 | 990円(税込) | ||
ISBN | 9784166613373 | ||
鎌倉幕府150年の歴史をつくった謎の一族、北条氏。 名もなき一介の一族はなぜ、日本の歴史を変えることができたのかーー。 北条氏の時代を象徴する「七人の得宗(当主)」を中心に読み解く。 第一章 北条時政 敵をつくらない陰謀術 ・鎌倉幕府の誕生 ・曾我兄弟の仇討ち事件 ・13人の合議制 ・ライバル梶原氏、比企氏を次々と滅ぼす 第二章 北条義時 「世論」を味方に朝廷を破る ・幕府きっての武人、和田氏の滅亡 ・将軍実朝暗殺事件 ・後鳥羽上皇との直接対決、承久の乱 第三章 北条泰時 「先進」京都に学んだ式目制定 ・明恵との出会い ・御成敗式目の制定 ・天皇の即位に介入 第四章 北条時頼 民を視野に入れた統治力 ・「撫民」とは何か ・仏教を政治に生かす ・三浦氏の滅亡 ・将軍を次々と取り換える 第五章 北条時宗、貞時 強すぎた世襲権力の弊害 ・二度の元寇のもたらしたもの ・改革者、安達泰盛の登場 ・霜月騒動で安達氏が滅亡 ・御内人、平頼綱の専制 第六章 北条高時 得宗一人勝ち体制が滅びた理由 ・高時は本当に「暗愚」だったのか ・後醍醐天皇はなぜ倒幕を考えたのか ・幕府にもっとも近かった足利尊氏の裏切り ・全国で根絶やしにされた北条一族 | |||
この時代の世界
(この項おわり)
高徳院の開山、開祖は不明だが、初期は真言宗の寺院であったようだ。のちに、1202年(建仁2年)に宋から帰国した栄西がもたらした臨済宗に属し、建長寺の末寺となった。江戸時代に入って再興されると、1175年(承安5年)に法然が開いた浄土宗の寺院となった。