西暦1692年 - セイラム魔女裁判はじまる

集団ヒステリーか
セイラム魔女裁判
1692年3月、米マサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)において、200名近い村人が魔女として告発されるというセイラム魔女裁判がはじまる。19名が処刑され、5名が獄死した。
集団心理の暴走で、無実とされる人々が次々と告発されていった。
1692年1月、セイラム村の有力者パリス牧師の娘エリザベス(9歳)と、姪のアビゲイル(11歳)が、突然奇妙な行動をとり始めた。何かを恐れるように叫び、部屋中の物を投げつけた。異常な行動は、まるで伝染するかのように、近所に住む10代の少女たち10人以上にまで広がっていった。医者は、少女たちを治療したものの効果がなく、悪魔憑きと診断を下した。
セイラム村に住むピューリタンは神の意思に従おうとするあまり、魔女の存在を信じてしまった。少女たちは3人の村人の名前を魔女として挙げた。こうして、役人が逮捕に向かい、魔女狩りが始まった。

1692年3月1日、裁判が始まった。告発されたのは、物乞いや嫌われ者の老婆など、弱い立場の女性たちだった。
はじめは無実を訴えていた被告だが、尋問は次第に激しくなり、悪魔と契約したと答えてしまった。さらに、悪魔と契約をした時、そこには魔女が5人いたと証言した。こうして、セイラム村に不安の種が撒かれていった。
7月19日、最初の処刑が行われた。人口1,700人の村で100人以上が魔女として逮捕されていた。

当時のセイラム村では社会的不安が増していた。
母国イギリスとフランスの戦争に加え、アメリカ先住民族の襲撃、伝染病の流行、農作物の不作などが続いていた。
あらたに村へ移住してきた者たちは、最初に村を切り開いた開拓者たちから土地を買い取ることで財力を蓄え、村人同士の対立も始まっていた。
こうした中、起きたのがセイラム魔女裁判である。

1693年に死刑判決を受けた女性が、2021年8月、セイラム近郊にあるノース・アンドオーバー・ミドルスクールの中学生らが地元の議員に働きかけ、恩赦を与えられる見通しとなった。
有罪となった女性は執行猶予され、1740年代に70代後半で亡くなったが、魔女として有罪判決を受けた他の人々と異なり、無罪とされていなかった。また、直系の子孫はいない。

この時代の世界

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(この項おわり)
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