新幹線 0系は「夢の超特急」

1964年登場の初代新幹線車両
0系新幹線
2008年7月28日 博多南駅 写真:ままぱふぅ
新幹線0系電車は、1964 年に「夢の超特急」として登場した初代新幹線車両である。営業最高時速は220km/h。1986年(昭和61年)までに改良を重ねつつ、合計3,216両が製造された。
第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。

写真のR61編制は2008年(平成20年)12月14日のラスト・ランで走ったもので、この最後尾車両(21-7008)は製造元の川崎重工業で保存されることになった。
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目次

2008年7月27日 博多南駅
0系の営業最高速度は220km/hと500系の300km/hに比べて80km/hも遅く、700系が投入された1999年(平成11年)、東海道新幹線から姿を消した。
その後は山陽新幹線区間で「こだま」として活躍。N700系が投入された2007年(平成19年)7月のダイヤ改正後も現役を続行していた。
0系新幹線
2008年7月27日 博多南駅 写真:ままぱふぅ
大阪にある交通科学博物館には、機械遺産に認定された0系新幹線1号車が展示されている。
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0系新幹線
2008年7月27日 博多駅 写真:ままぱふぅ
開業当時の大卒初任給は約2万円。東京-新大阪の2等車(現在の普通車)料金は2480円、1等車(現在のグリーン車)は5030円だった。

全長は在来線車両より5メートル長い25メートル、全幅は在来線車両より50センチ以上広い3.4メートルで、普通鋼を使用しているため、1両あたりの総重量は64トンにも達する。これは、鉄道博物館に展示されているC57形式蒸気機関車に匹敵する重さである。
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0系新幹線
2008年7月27日 博多駅 写真:パパぱふぅ
当初、東海道新幹線は 12両編成だったが、大阪万博(1970年)の輸送力増強の必要性から16両編成となった。
まさに日本の高度成長時代を象徴する「夢の超特急」にふさわしい電車である。
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0系新幹線
2008年7月27日 博多駅 写真:パパぱふぅ
車内は、登場当時からはだいぶ様変わりした。
指定席は「2&2シート」で、東海道新幹線のグリーン車と同じ広さだ、
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0系新幹線
2003年10月10日 新尾道駅 写真:パパぱふぅ
JR東海区間からは1999年(平成11年)に姿を消したが、山陽区間では「こだま」として活躍中。この写真のように、緑のラインがペイントされているものもある。
編成は4両または6両と短くなっている。車掌や売り子さんの制服は「レールスター」とは異なり、どことなく哀愁を誘う。
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0系新幹線とレールスター
2008年7月27日 博多南駅 写真:こぱふぅ
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ラスト・ラン

0系新幹線は、2008年(平成20年)11月30日、こだま659号(14時51分=岡山駅発、18時21分=博多駅着)をもって、営業運転を終了した。こだま659号は、通常、博多南駅まで運行されるが、この日は博多駅止まりであった。JR西日本によれば、すべて廃車になるという。
なお、JR西日本は、12月6日、13日、14日に「0系さよなら運転」を行った。

四国鉄道文化館

新幹線0系電車とDF50形ディーゼル機関車
2018年12月28日 四国鉄道文化館 写真:こぱふぅ
四国鉄道文化館は、西条市長、国鉄総裁を務め、新幹線の父と呼ばれた十河信二 (そごうしんじ) ゆかりの地ということから、21-141 が展示されている。1976年(昭和51年)6月から製造された21次車で、大きな客室窓を備えた最後の車両である。
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運転席 - 新幹線0系
2018年12月28日 四国鉄道文化館 写真:こぱふぅ
運転台は、高い位置に設置されており、高速運転での運転士の視界を確保している。前面ガラスは2枚貼り合せの防弾ガラス。運転装置は2ハンドルで、マスコンハンドルを右側に、ブレーキハンドルを左側に配置している。
主速度計は、ATC速度信号を表示する機能が付いた針が横に動く大型のアナログ指針式のものである。
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客車 - 新幹線0系
2018年12月28日 四国鉄道文化館 写真:こぱふぅ
1969年(昭和44年)まで二等車と呼ばれていた普通車の座席は、海側3列、山側2列の計横5列配置である。銀色と青色のモケットを張った転換式座席である。
グリーン車(一等車)はゴールデンオリーブ色のモケットを張ったリクライニングシートで、4列配置とゆとりをもった空間となっている。
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技術的背景

0系は、未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した、実証済みの技術の集積によって開発された、きわめて堅実な設計となっている。

主電動機出力は185kWで、1964年(昭和39年)当時、日本における電車用モーターとしては最強であった。これを1両あたり4基搭載し、16両編成時には 11,840kW(約16,000馬力)の出力を発揮している。100系より出力が大きい。

車体デザインは空力特性を考慮してた流線型になっているが、設計に携わった国鉄技術者の三木忠直は旧・日本海軍の技術将校であり、日本海軍の双発爆撃機「銀河」をデザインモチーフにしたと語っている。

先頭車両の製作は、1961年(昭和36年)、日立製作所が山下工業所に依頼した。山下工業所の創業者である山下清登 (やましたきよと) さんは、当時を振り返り、「やらなければならない仕事だ」との使命を感じたという。
中学卒業後、自動車修理工場で板金を覚えた山下さんは、日立製作所笠戸事業所で蒸気機関車の部品作りなどを手がけた。山下さんが得意とするのは、金属をハンマーでたたいて曲面を形づくる「打ち出し板金」という技術。切り分けた鉄板をたたいて延ばし、微妙な力加減で曲線を作り出す職人芸だ。
木で作った原寸大の0系先頭車両の型枠に鉄板をあわせ、毎日8~10時間、ハンマーでたたき続けた。ひどいしびれから手の感覚がなくなる。山下さんとともに0系に携わり、厚生労働省が認定する「現代の名工」となった藤井洋征 (ふじいゆろゆき) さんは「ハンマーの柄が1日に何本も割れた」と当時を述懐する。
なぜ、手作業なのか。通常の客車部分と違い、先頭車両は1編成に2両しかない。早ければ数年でリニューアルされる。その度に専用の金型を作り、大型のプレス機を使っていては「採算が合わないからだ」と現社長の山下竜登 (やましたりゅうと) さんは言う。

安全神話

新幹線は開業以来50年間、列車事故による死者を出していない。
しかし、東海道新幹線の新居町 (あらいまち) 駅から徒歩15分の丘の上に立つ東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑には、殉職者210人の名が刻まれている。国鉄職員の6人以外は、請負業者の従業員だ。出稼ぎ者も多い。トンネルでの土砂の崩落などによる殉職者だ。
息子を亡くした父親は、「新幹線は安全なんだろうけど、三郎を含めて210人も死んだことは忘れないでほしい。もう、そういうことのないように」と語る。

新幹線の生みの親とされる島秀雄 (しまひでお) さんの父・安次郎 (やすじろう) さんは、大正期、鉄道院の技術部門トップとして広軌への転換計画を主導した。しかし政変があり頓挫。昭和に入り、東京―下関間を新線で結ぶ戦時下の「弾丸列車」構想で再チャレンジする。
踏切のない線路を最高速度150km/hの機関車で、東京―大阪4時間半、東京―下関は9時間で結ぶ計画だった。秀雄さんも父のもと、機関車の設計を担った。
しかし、戦局の悪化で工事は1943年度に中断し、安次郎さんは敗戦翌年の1946年(昭和21年)に死去した。
完成した日本坂トンネルや途中まで掘り進んだ新丹那トンネル、買収済みの用地約100km、カーブの最小曲線半径2500mなどの設計基準は、そのまま新幹線に引き継がれた。
1955年(昭和30年)、国鉄総裁の十河信二 (そごうしんじ) さんは、民間企業に転じていた秀雄氏を呼び戻すため、「おやじさんの弔い合戦をやらんか」と口説いたという。

海外で初めて新幹線システムを採用し、2007年(平成19年)に開業した台湾高速鉄道(高鉄)。技術顧問に招かれたのが、秀雄氏の次男・ (たかし) さん(83)だった。旧国鉄で0系の台車設計を担い、東北新幹線200系を設計した。
高鉄も列車事故による死者は出していない。

参考サイト

0系新幹線 関連
(この項おわり)
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