
平清盛像(宮島)

高倉天皇

平清盛像(音戸の瀬戸)
こうして平氏一門は全国に500以上の荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手に入れていた。平清盛の義弟・平時忠は「平氏にあらずんば人にあらず」と言い放ったと伝えられる。
こうした平氏の隆盛に対し、後白河院政派は不快感をあらわにした。1176年(安元2年)、建春門院が没すると、両者の関係は急速に悪化する。
こうした平氏の隆盛に対し、後白河院政派は不快感をあらわにした。1176年(安元2年)、建春門院が没すると、両者の関係は急速に悪化する。

平重盛
1178年(治承2年)11月、高倉天皇と中宮・徳子の間に待望の皇子が誕生する。平清盛は皇子を皇太子にすることを後白河法皇に迫り、12月に立太子させてしまう。
対する後白河法皇は、1179年(治承3年)7月、清盛の嫡男・平重盛が病死すると、その所領の全てを没収してしまう。これに腹を立てた清盛は、11月14日、大軍を率いて上洛する。
驚いた後白河法皇は使者を立てて和解しようとするが、清盛はこれを聞き入れず、ついに11月20日、法皇は鳥羽殿に幽閉され、後白河院政は停止された。
対する後白河法皇は、1179年(治承3年)7月、清盛の嫡男・平重盛が病死すると、その所領の全てを没収してしまう。これに腹を立てた清盛は、11月14日、大軍を率いて上洛する。
驚いた後白河法皇は使者を立てて和解しようとするが、清盛はこれを聞き入れず、ついに11月20日、法皇は鳥羽殿に幽閉され、後白河院政は停止された。

安徳天皇
1180年(治承4年)2月、高倉天皇は3歳になったばかりの皇太子に譲位した。安徳天皇である。こうして、平氏の意のままに動く高倉院政が開始されることになる。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
平治の乱が収まり、平清盛は武士階級のトップとして政権の警察・軍事力を掌握していた。清盛は摂関家と緊密な関係を結び、1167年(仁安2年)に太政大臣にまで出世した。翌年、厳島神社に寄進し、今日のような海上社殿が造営された。