戦いに勝利した義経は、後白河法皇から検非違使に任じられた。ところが頼朝は、義経が報告なく官位を受けた振る舞いが源氏の結束を乱すものとして糾弾し、義経を源氏軍から外した。

敗走した平氏軍は、瀬戸内海の交通の要衝である四国の屋島と彦島に布陣し、地元の水軍と力を合わせて守りを固めた。源氏軍はこれを攻略しようとするが、水軍をほとんど持たない源氏軍は苦戦を強いられていた。
元歴2年(1185年)2月17日、ようやく義経に出陣の命令が下った。義経はわずか5艘の手勢を率いて瀬戸内海へ向かい、平氏側の水軍を寝返らせるなどして味方を増やした。
敗走した平氏軍は、瀬戸内海の交通の要衝である四国の屋島と彦島に布陣し、地元の水軍と力を合わせて守りを固めた。源氏軍はこれを攻略しようとするが、水軍をほとんど持たない源氏軍は苦戦を強いられていた。
元歴2年(1185年)2月17日、ようやく義経に出陣の命令が下った。義経はわずか5艘の手勢を率いて瀬戸内海へ向かい、平氏側の水軍を寝返らせるなどして味方を増やした。
元暦2年(1185年)3月24日正午、ついに壇ノ浦の戦いの火ぶたが切って落とされた。
当初は海戦慣れしている平氏が優勢だったが、午後には潮目が変わり、平氏の船と源氏の船がいたるところで衝突し、白兵戦となった。
平氏の敗戦が色濃くなってくると、二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は、まだ8歳の安徳天皇を抱き三種の神器を身につけて入水した。
戦いは終わり、源氏軍は三種の神器の捜索を行ったが、勾玉と鏡は見つかったものの、草薙剣は発見できなかったと言われている。

義経は、建礼門院(安徳天皇の母で清盛の娘)や捕虜を連れて京へ凱旋した。
後白河法皇は褒美として義経とその配下の御家人たちに官位を与えた。ところが、これを知った源頼朝は激怒し、義経の鎌倉入りを拒絶した。
この後、頼朝と義経の対立は激化し、文治5年(1189年)閏4月、義経は奥州藤原氏とともに滅ぶことになる。
当初は海戦慣れしている平氏が優勢だったが、午後には潮目が変わり、平氏の船と源氏の船がいたるところで衝突し、白兵戦となった。
平氏の敗戦が色濃くなってくると、二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母)は、まだ8歳の安徳天皇を抱き三種の神器を身につけて入水した。
戦いは終わり、源氏軍は三種の神器の捜索を行ったが、勾玉と鏡は見つかったものの、草薙剣は発見できなかったと言われている。
義経は、建礼門院(安徳天皇の母で清盛の娘)や捕虜を連れて京へ凱旋した。
後白河法皇は褒美として義経とその配下の御家人たちに官位を与えた。ところが、これを知った源頼朝は激怒し、義経の鎌倉入りを拒絶した。
この後、頼朝と義経の対立は激化し、文治5年(1189年)閏4月、義経は奥州藤原氏とともに滅ぶことになる。
参考サイト
- 壇ノ浦古戦場址と長州砲:ぱふぅ家のホームページ
- 関門トンネルを歩いてみる(ぱふぅ家のホームページ)
- 関門トンネル人道は歩行者のための海底トンネル:ぱふぅ家のホームページ
- 景清洞でスカイフィッシュを撮影!?(ぱふぅ家のホームページ)
壇ノ浦付近の地図
【自動車】
- 中国道「下関IC」より壇の浦方面へ5分で、みもすそ川公園に到着。無料駐車場有り。
この時代の世界
(この項おわり)


治承4年(1180年)8月、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した。この知らせは、東北に隠れ住んでいた異母弟の源義経にも届き、10月、義経は頼朝軍に合流した。
寿永3年(1184年)2月7日、義経は一ノ谷の戦いで平氏軍を奇襲し、敗走させる。
後白河法王は、平氏とともに敗走した安徳天皇に代わり、5歳の後鳥羽天皇を立てた。