
ハンガリーを制圧したスレイマン1世は、神聖ローマ皇帝カール5世がハンガリー王位を継承したことに対して圧力を加えるため、1529年、ウィーンを包囲した。
外征と領土拡大
1520年、スレイマン1世がオスマン帝国の第10代皇帝に即位する。46年の在位中に13回の対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収め、オスマン帝国を最盛期を現出した。スレイマン大帝とも。
1526年、スレイマン1世はモハーチの戦いでハンガリーを手中に収める。

ハンガリーを制圧したスレイマン1世は、ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨した神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世がハンガリー王位を継承したことを受け、これに対して圧力を加えるため、1529年、イェニチェリ軍団と常備騎兵軍団(シパーヒー)、砲兵などからなる約12万の兵力をもってハプスブルク家の拠点ウィーンを包囲(第一次ウィーン包囲)した。ウィーン防衛は、カール5世の弟フェルディナントが当たった。

しかし、オスマン軍の頼みの大砲が到着しなかったり、補給が難しくなったことから、オスマン軍はウィーン攻略を諦め10月に撤退した。ウィーンは陥落を免れたものの、ヨーロッパに強い衝撃を与えた。

1533年、フェルディナントと和睦すると、スレイマン1世の遠征は東方へ転じる。1534年、バグダードを占領しイラク領有は確定させたが、サファヴィー朝の完全征服には至らなかった。
その後、ハプスブルク家と敵対関係にあったフランス王フランソワ1世と同盟を結び、その後継者アンリ2世と同盟関係は続いた。
1526年、スレイマン1世はモハーチの戦いでハンガリーを手中に収める。

ハンガリーを制圧したスレイマン1世は、ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨した神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世がハンガリー王位を継承したことを受け、これに対して圧力を加えるため、1529年、イェニチェリ軍団と常備騎兵軍団(シパーヒー)、砲兵などからなる約12万の兵力をもってハプスブルク家の拠点ウィーンを包囲(第一次ウィーン包囲)した。ウィーン防衛は、カール5世の弟フェルディナントが当たった。

しかし、オスマン軍の頼みの大砲が到着しなかったり、補給が難しくなったことから、オスマン軍はウィーン攻略を諦め10月に撤退した。ウィーンは陥落を免れたものの、ヨーロッパに強い衝撃を与えた。

1533年、フェルディナントと和睦すると、スレイマン1世の遠征は東方へ転じる。1534年、バグダードを占領しイラク領有は確定させたが、サファヴィー朝の完全征服には至らなかった。
その後、ハプスブルク家と敵対関係にあったフランス王フランソワ1世と同盟を結び、その後継者アンリ2世と同盟関係は続いた。
制海権の確保
スレイマン1世は、海軍の育成にも注力した。
1533年、海賊バルバロス・ハイレッディンを海軍提督(パシャ)に取り立てると、1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。

1571年、レパントの海戦でスペイン無敵艦隊に敗れはしたものの、すぐに再建され、1574年にはチュニスを征服してハフス朝を滅ぼした。
1533年、海賊バルバロス・ハイレッディンを海軍提督(パシャ)に取り立てると、1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。

1571年、レパントの海戦でスペイン無敵艦隊に敗れはしたものの、すぐに再建され、1574年にはチュニスを征服してハフス朝を滅ぼした。
柔らかい専制
オスマン帝国はトルコ系民族による征服王朝であり、支配層はトルコ人だったが、領内にはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラヴ人、ユダヤ人などなど、多数の民族から形成される複合的な多民族国家であった。
その広大な領土と多くの民族を統治するため、中央集権的な統治制度を作り上げたが、その支配下の民族に対しては、それぞれの宗教の信仰を認め、イスラーム教以外の宗教であるキリスト教ギリシア正教やユダヤ教、アルメニア教会派など非ムスリムにたいして改宗を強制せず、宗教的集団を基本的な統治の単位(ミッレト)とした。
このような、中央集権的な専制国家でありながら、支配下の民族に対して宗教的にも政治的にも一定の自治を認めていたオスマン帝国の特徴は「柔らかい専制」と言われてる。また、公用語を持たなかった。

オスマン帝国は、スルタンといえどもイスラーム法の規制を受ける宗教国家であり、他宗派、他民族への寛容な性格を持っていたが、同時に専制国家としての中央集権体制の維持、強化に努めた。
スルタンの直轄地は州・県・郡に分け、州には総督、県には知事、郡にはイスラーム法官を中央から派遣した。直轄地以外にはエジプトやチュニスのように現地有力者を太守(パシャ)に任命して統治させた。また黒海北岸のクリム・ハン国などのように属国として支配した地域もある。
スルタンを補佐し、実質的な政治にあたる官僚機構の頂点にいたのが大宰相(ヴェズィラーザム)であり、形式的にはスルタンの御前会議で最高政策が決定された。官僚(キャーティプ)は文書の管理にあたり、宮廷と国家の財政を実質的に処理した。

17世紀に入ると領土の縮小が始まるが、1923年のトルコ共和国成立まで存続した。
その広大な領土と多くの民族を統治するため、中央集権的な統治制度を作り上げたが、その支配下の民族に対しては、それぞれの宗教の信仰を認め、イスラーム教以外の宗教であるキリスト教ギリシア正教やユダヤ教、アルメニア教会派など非ムスリムにたいして改宗を強制せず、宗教的集団を基本的な統治の単位(ミッレト)とした。
このような、中央集権的な専制国家でありながら、支配下の民族に対して宗教的にも政治的にも一定の自治を認めていたオスマン帝国の特徴は「柔らかい専制」と言われてる。また、公用語を持たなかった。

オスマン帝国は、スルタンといえどもイスラーム法の規制を受ける宗教国家であり、他宗派、他民族への寛容な性格を持っていたが、同時に専制国家としての中央集権体制の維持、強化に努めた。
スルタンの直轄地は州・県・郡に分け、州には総督、県には知事、郡にはイスラーム法官を中央から派遣した。直轄地以外にはエジプトやチュニスのように現地有力者を太守(パシャ)に任命して統治させた。また黒海北岸のクリム・ハン国などのように属国として支配した地域もある。
スルタンを補佐し、実質的な政治にあたる官僚機構の頂点にいたのが大宰相(ヴェズィラーザム)であり、形式的にはスルタンの御前会議で最高政策が決定された。官僚(キャーティプ)は文書の管理にあたり、宮廷と国家の財政を実質的に処理した。

17世紀に入ると領土の縮小が始まるが、1923年のトルコ共和国成立まで存続した。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 | ||
著者 | 鈴木 董 | ||
出版社 | 講談社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 1992年04月16日頃 | ||
価格 | 946円(税込) | ||
ISBN | 9784061490970 | ||
西欧人の見た「残虐な征服者」は、西欧をはるかにこえる先進国だった。羊飼いでも大臣になれる開放的な社会。キリスト教世界で迫害されたユダヤ難民を受け入れた宗教的寛容性。多民族・多宗教の超大国を支えた「柔らかい専制」の秘密に迫る。 ユダヤ難民を保護した寛容性ーー近代西欧を見なれた我々にとって、西欧社会は開放的で合理的な社会だというイメージが定着している。そして、キリスト教も、合理的で寛容な宗教とイメージされがちである。これに対し、イスラム世界は閉鎖的で非合理的な社会であり、イスラムは不寛容な宗教だというイメージが強い。しかし、少なくとも中世から初期近代までは、実態はむしろ逆であった。……15世紀以降になると、それまではムスリムの支配下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒も、(キリスト教徒に)厳しく迫害されるようになった。この時、迫害に耐えかねた彼らが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュクに生まれ、ユダヤ人差別の存在をまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。--本書より ●「トルコの脅威」の虚像 ●超大国を支えたゆるやかな統合 ●トルコ人はどこから来たか ●電光バヤズィット、十字軍を撃破 ●イスラム=共存の知恵 ●繁栄するバザール ●「赤いりんごの国」への聖戦 ●地中海は「スレイマンの海」 ●西欧人の恐れた「組織の帝国」 ●「軍人の帝国」から「官僚の帝国」へ | |||
(この項おわり)