西暦1705年 - ハレー彗星を予言

ニュートンに『プリンキピア』出版を勧める
エドモンド・ハレー
1705年、エドモンド・ハレーが『彗星天文学概論』を発表した。この中で、ハレーは自身が観測した1682年の彗星が、、1456年、1531年、1607年に現れたものと同一の天体で、次は1758年に回帰することを予言した。
ハレーはこの予言を見ることなく他界したが、実際に1682年に彗星は回帰し、ハレー彗星と名付けられた。惑星以外で太陽系を公転する天体が初めて観測された。
ハレーは、天文学から生命保険まで幅広い分野に数学を適用し、さまざまな予測を行った。
エドモンド・ハレーは、1673年、オックスフォード大学に入学し、在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表した。1676年に卒業すると、南半球の恒星を研究するためにセントヘレナ島を訪れ、1679年に『南天星表』を発表する。

ロンドンに戻ったハレーは、月の観測に時間を費やし、ケプラーの惑星運動の法則を証明するために重力について関心をもった。1684年、王立協会会長のレン(セント・ポール寺院の設計者)、事務局長のフック(弾性力学の法則の発見者)、そしてハレーの3人はロンドンのコーヒーハウスで議論するが、答えが見つからなかった。
その数ヶ月後、ケンブリッジ大学のアイザック・ニュートンに、この問題をぶつけたところ、すでに解決していることを知らされた。さらに半年後、ニュートンから詳しい論文が送られてきた。
感動したハレーは、ニュートンに出版することを勧めた。これを受けて『プリンキピア』が執筆されたのだが、王立協会が出版資金を渋ったため、ハレーが資金を供出して自費出版という形で世に出た。

1693年、ハレーは終身年金に関する論文を発表し、保険数理学の発展に強い影響を及ぼした。

1705年にハレー彗星の回帰を予言すると、続いて1716年には金星の日面通過の時刻が観測地点によって異なることを用いて太陽と地球の間の距離を高い精度で求めることができると予言した。これも彼が他界した1761年に観測された。
1720年には、ジョン・フラムスティードの後を継いでグリニッジ天文台の台長に就任した。

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