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北条氏の時代 | ||
著者 | 本郷 和人 | ||
出版社 | 文藝春秋 | ||
サイズ | 新書 |
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発売日 | 2021年11月18日頃 | ||
価格 | 990円(税込) | ||
ISBN | 9784166613373 |
鎌倉幕府は関東武士たちによる、関東武士たちのための政権として出発しました。そこで重要となったのは、いかに多くの味方を集めるかだったのです。(6ページ)
概要

三つ鱗:北条氏の家紋

鎌倉大仏
レビュー

源頼朝(足利直義とも)

鶴岡八幡宮
頼朝は、朝廷に依存せず、関東武士の世界を作ろうとした。そこで、関東武士に対しては土地などの権利保障を行うことで結束を固め、朝廷に対しては東国武士の自立を認める交渉を行った。京都生まれの頼朝は、文字の読み書きすらできなかった関東武士に加え、京都から文官を集め独自の政治体制を築いていった。

北条時政

北条義時

源実朝

後鳥羽上皇
義時は、4代将軍として、源氏より格上の皇子の下向を画策したが、これは失敗に終わり、代わりに摂関家九条家から九条頼経を迎え入れた。
この頃、幕府と朝廷の対立は決定的となり、承久の乱]が起きた。
後鳥羽上皇は優秀ではあったが詰めが甘く、開戦時の幕府軍と朝廷軍の兵力差は10対1で、あっという間に幕府軍の京都入城を許してしまう。
この頃、幕府と朝廷の対立は決定的となり、承久の乱]が起きた。
後鳥羽上皇は優秀ではあったが詰めが甘く、開戦時の幕府軍と朝廷軍の兵力差は10対1で、あっという間に幕府軍の京都入城を許してしまう。

九条頼経
後鳥羽上皇は軍備放棄を宣言し、こうして武士による支配の時代が到来する。
義時は支配を盤石にするため容赦がなかった。戦後処理においては貴族たちを次々に処刑し、後鳥羽上皇を隠岐へ流し、没収した荘園を武士に配分した。また、六波羅探題を設置し、朝廷を監視するだけでなく、その人事権にも介入した。
義時は支配を盤石にするため容赦がなかった。戦後処理においては貴族たちを次々に処刑し、後鳥羽上皇を隠岐へ流し、没収した荘園を武士に配分した。また、六波羅探題を設置し、朝廷を監視するだけでなく、その人事権にも介入した。

北条泰時
1232年、義時の後を継いだ北条泰時は御成敗式目を制定し、法による統治をスタートさせた。本郷さんは、「泰時は北条氏のなかでも、最も優秀なリーダー」(137ページ)と評価する。御成敗式目を制定し、安定した政治システムを構築し執権制度を確立、鎌倉の都市整備を実行したからだ。御成敗式目18条は女性への財産分与が認められていたり、8条では20年間の土地占有があると変換しなくてもいいという現代の民放に繋がる条文がある。

九条道家
この頃、九条道家によって朝廷は有能な官人を登用し、道理に基づく公正な裁定を行うようになり、徳政を敷いていた。泰時は、六波羅探題で朝廷を相手にする中で、この徳政を知り、政治に活かしていく。

北条時頼

フビライ・ハン
このころ貨幣経済が発展し、モノの売買によって銭を得る手段のない武士は、領地を担保に借金するしかなかった。だが、返済できなくなって領地をとられてしまう御家人が続出したことから、土地売買に関する御成敗式目の追加法が発布された。これが、のちの徳政令に繋がる。
また、元帝国の親書をもった高麗の死者が訪れた。朝廷は返書を作成するが、幕府はそれと止め、棚ざらしにした。一方で、6代将軍宗尊親王を追放した。『吾妻鏡』の記述はここで終わる。
また、元帝国の親書をもった高麗の死者が訪れた。朝廷は返書を作成するが、幕府はそれと止め、棚ざらしにした。一方で、6代将軍宗尊親王を追放した。『吾妻鏡』の記述はここで終わる。

北条時宗
そうした危機が続く中の1268年、北条時宗が第8代執権に就いた。だが、生まれながらにして執権の座が確約されていた時宗は、「卓越したリーダーではなかった」(206ページ)と、本郷さんはいう。
しびれを切らした元帝国は、1274年、博多湾へ遠征する。文永の役である。この遠征は偵察が主な任務だったようで、1日で撤兵した。その後、元は再び使者を送り冊封体制に加わるよう要求するが、時宗はこれを拒絶し、死者を斬首してしまう。高麗、南宋を滅ぼした元は、1281年、ふたたび日本へ軍を進め、弘安の役が起きた。
元軍の上陸を阻止した幕府軍だったが、御家人以外も動員していたため、恩賞をめぐって武士たちの間に不満が燻った。
しびれを切らした元帝国は、1274年、博多湾へ遠征する。文永の役である。この遠征は偵察が主な任務だったようで、1日で撤兵した。その後、元は再び使者を送り冊封体制に加わるよう要求するが、時宗はこれを拒絶し、死者を斬首してしまう。高麗、南宋を滅ぼした元は、1281年、ふたたび日本へ軍を進め、弘安の役が起きた。
元軍の上陸を阻止した幕府軍だったが、御家人以外も動員していたため、恩賞をめぐって武士たちの間に不満が燻った。

北条貞時

北条高時

後醍醐天皇
翌1333年、隠岐を脱出した後醍醐天皇は、追討のため幕府から派遣された足利尊氏を味方に引き入れ、六波羅探題を攻略。関東で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落させ、ついに北条氏は滅亡する。鎌倉は、一騎打ちの時代は天然の要害だったが、集団戦の時代になり、それが通用しなくなっていた。
本郷さんは、「尊氏の決心を促したのは御家人たちの『世論』」(283ページ)であるとし、逆に北条氏があっさり滅亡したのも、「自らが拠って立つべき御家人たちに見捨てられ」(294ページ)たからだという。
本郷さんは、「尊氏の決心を促したのは御家人たちの『世論』」(283ページ)であるとし、逆に北条氏があっさり滅亡したのも、「自らが拠って立つべき御家人たちに見捨てられ」(294ページ)たからだという。

足利尊氏(高師直との説も)
参考サイト
- 北条氏の時代:文藝春秋
- 逃げ上手の若君:週刊少年ジャンプ
- 西暦1192年 - 源頼朝が征夷大将軍に任官:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1219年 - 源実朝の暗殺:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1203年 - 東大寺南大門金剛力士像:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1221年 - 承久の乱:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1232年 - 御成敗式目:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1252年 - 鎌倉大仏の建立始まる:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1274年 - 文永の役:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1281年 - 弘安の役:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1297年 - 永仁の徳政令:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1333年 - 鎌倉幕府滅亡:ぱふぅ家のホームページ
- 鶴岡八幡宮のおみくじは凶が多い:ぱふぅ家のホームページ
- 鎌倉大仏は鎌倉時代を代表する仏教彫刻:ぱふぅ家のホームページ
- 鎌倉能舞台で700年前の日本刀「正宗」を見る:ぱふぅ家のホームページ
- 極楽寺駅はドラマ『俺たちの朝』のロケ地:ぱふぅ家のホームページ
- 長谷寺で「お寺のカレー」を食す:ぱふぅ家のホームページ
(この項おわり)