西暦1203年 - 東大寺南大門金剛力士像
鎌倉彫刻の最高傑作
東大寺南大門金剛力士 阿形
1203年(建仁3年)、
運慶
とその弟子・
快慶
らによって、東大寺南大門の
金剛力士像
が完成する。ヒノキの寄木造りで、
阿形
(
あぎょう
)
と
吽形
(
うんぎょう
)
の2体1対の構成となっている。鎌倉彫刻の最高傑作として、国宝に指定されている。
2体とも像高は8メートル以上あり、着手から僅か69日で完成した。
1180年(治承4年)、宗教勢力の鎮圧にともなう火災により、
東大寺
や
興福寺
が焼失してしまう。平安時代末期のことで、再建は絶望視されていたが、翌1181年(治承5年)、
後白河法皇
が再建に着手する。奥州藤原氏は西行を派遣し、資金面でこれを支援した。
東大寺南大門金剛力士 吽形
1185年(元暦2年)、東大寺大仏の開眼供養が行われた。
東大寺・興福寺の再建は鎌倉時代に入っても続けられ、1195年(建久6年)の東大寺大仏殿落成供養には、征夷大将軍となった
源頼朝
と妻の北条政子が参列した。
東大寺の仏像は、奈良仏師の流れを汲む運慶・快慶らの
慶派
によって造り直され、南大門金剛力士像もその一部である。
1203年(建仁3年)、東大寺総供養が執り行われ、
後鳥羽上皇
が参列した。
興福寺も、藤原摂関家によって再建された。
六波羅蜜寺の空也上人像
六波羅蜜寺
の空也上人像は、13世紀中頃、運慶四男・康勝の作で、空也上人が「南無阿弥陀仏」と唱えると6体の小さな仏様に姿を変えたという伝承を形にしたもの。重要文化財に指定されている。
慶派
に代表される鎌倉彫刻は、武士の感覚を採り入れ、力強く写実的で、人間性の豊かを特色としている。
この時代の世界
1075
1125
1175
1225
1275
1203
東大寺南大門金剛力士像
1127
1192
後白河天皇
1147
1199
源頼朝
1157
1225
北条政子
1180
1239
後鳥羽天皇
1192
源頼朝、征夷大将軍に任官
1118
1190
西行
1192
1219
源実朝
1219
源実朝の暗殺
1200
1219
公暁
1221
承久の乱
1163
1224
北条義時
1133
1215
北条時政
1183
1242
北条泰時
1195
1231
土御門天皇
1197
1242
順徳天皇
1232
御成敗式目
1133
1212
法然
1179
治承三年の政変
1167
音戸の瀬戸の開削
1161
1181
高倉天皇
1159
1189
源義経
1141
1215
栄西
1178
1185
安徳天皇
1152
1214
平徳子
1185
壇ノ浦の戦い
1182
1204
源頼家
1123
1160
源義朝
1133
1159
藤原信頼
1139
1155
近衛天皇
1122
1187
藤原秀衡
1143
1165
二条天皇
1156
保元の乱
1159
平治の乱
1138
1179
平重盛
1142
1176
平滋子
1130
1189
平時忠
1154
1184
源義仲
1164
1176
六条天皇
1155
1189
藤原泰衡
1162
1241
藤原定家
1173
1262
親鸞
1200
1253
道元
1206
モンゴル帝国の成立
1167
1227
チンギス・ハン
1190
1244
耶律楚材
1241
ワールシュタットの戦い
1243
キプチャク汗国の成立
1182
ノートルダム大聖堂の完成
1167
1216
ジョン
1165
1223
フィリップ2世
1209
ケンブリッジ大学の創設
1215
大憲章(マグナ・カルタ)
1181
1252
プラノ・カルピニ
1228
1254
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1194
1250
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1196
1241
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1254
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1221
1223
スノッリのエッダ
1178
1241
スノッリ・ストゥルルソン
1125
1218
ジャヤーヴァルマン7世
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2体とも像高は8メートル以上あり、着手から僅か69日で完成した。
1180年(治承4年)、宗教勢力の鎮圧にともなう火災により、東大寺や興福寺が焼失してしまう。平安時代末期のことで、再建は絶望視されていたが、翌1181年(治承5年)、後白河法皇が再建に着手する。奥州藤原氏は西行を派遣し、資金面でこれを支援した。