西暦1333年 - 鎌倉幕府滅亡

建武の新政はじまる
後醍醐天皇
正慶 2 年/元弘 3 年(1333 年)5 月、後醍醐天皇 (ごだいごてんのう) に味方した足利尊氏 (あしかがたかうじ) は、京都の六波羅探題 (ろくはらたんだい) を落とす。
これに呼応した新田義貞 (にったよしさだ) ら関東武士が鎌倉を攻略し、5 月 22 日、執権の北条高時 (ほうじょうたかとき) が自害し、鎌倉幕府は滅亡した。
元寇以来の政局不安などにより、幕府の威光は衰えていた。
一方、朝廷では大覚寺統 (だいかくじとう) 持明院統 (じみょういんとう) が対立し、相互に皇位を交代する両統迭立が行われていた。

文保 2 年(1318 年)、大覚寺統の後醍醐が第86 代天皇に即位する。
天皇親政を目指した後醍醐は、正中元年(1324 年)、鎌倉幕府の倒幕計画を立てる。しかし、六波羅探題が察知して計画は事前に発覚。倒幕計画は失敗する。(正中の変 (しょうちゅうのへん) 

元弘元年(1331 年)、後醍醐は再び倒幕のために挙兵する。
鎌倉幕府の有力御家人の足利尊氏は幕府軍を率いて朝廷軍討伐に向かった。朝廷軍では楠木正成 (くすのきまさしげ) などの土豪が活躍したが、幕府軍に対して敗北。後醍醐は隠岐 (おき) へ流された。
正慶 2 年/元弘 3 年(1333 年)隠岐を脱出した後醍醐は、再楠木正成らと合流し、再び倒幕のために挙兵する。
3 月に幕府軍として出陣した足利尊氏は、武士たちの心が幕府を離れていることを察知すると、後醍醐側に寝返り、後醍醐から幕府討伐の許可を取り付ける。
こうして尊氏は京都の六波羅探題を攻略し、新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした。

同年、後醍醐は天皇親政を開始する(建武の新政)。しかし、2 年あまりで足利尊氏が反旗を翻し、親政は頓挫する。
1225 1275 1325 1375 1425 1475 1333 鎌倉幕府滅亡 1288 1339 後醍醐天皇 1305 1358 足利尊氏 1306 1352 足利直義 1338 足利尊氏、征夷大将軍に任官 1294 1336 楠木正成 1303 1333 北条高時 1301 1338 新田義貞 1308 1335 護良親王 1297 1348 花園天皇 1313 1364 光厳天皇 1330 1367 足利義詮 1321 1380 光明天皇 1336 1392 南北朝時代 1381 花の御所の完成 1358 1408 足利義満 1397 金閣建立 1274 文永の役 1281 弘安の役 1328 1398 朱元璋→洪武帝 1368 明の建国 1335 1408 李成桂 1377 1402 建文帝 1392 李成桂が即位 1304 1368 イブン・バトゥータ 1332 1406 イブン・ハルドゥーン 1336 1405 ティムール 1370 ティムール帝国の成立 1360 1403 バヤズィト1世 1402 アンカラの戦い 1309 1377 教皇のアヴィニョン捕囚 1336 1378 グレゴリウス11世 1348 黒死病がヨーロッパで猛威をふるう 1339 1453 百年戦争 1293 1350 フィリップ6世 1312 1377 エドワード3世 1356 カール4世の金印勅書 1316 1378 カール4世 1318 1389 ウルバヌス6世 1338 1380 シャルル5世 1342 1394 クレメンス7世 1313 1375 ボッカチオ 1304 1374 ペトラルカ 1340 1400 チョーサー Tooltip
(この項おわり)
header